大谷吉継はハンセン病?梅毒?盟友・石田三成を裏切らなかった智将の病と覚悟

戦国時代

要約

大谷吉継は、関ヶ原の戦いで西軍の中心人物として活躍した武将です。彼は病を患っていたことでも知られており、当時「らい病(ハンセン病)」とされる説が有力でしたが、近年では梅毒だった可能性も指摘されています。顔を包帯で覆い、輿に乗って戦場に赴いたという逸話は、多くの人に感動を与えてきました。この記事では彼の病とその影響、石田三成との友情、そして関ヶ原における彼の運命を対話形式で掘り下げていきます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、大谷吉継って聞いたことある?

ケン
ケン

うーん…戦国時代の武将だっけ?あんまり詳しくないなぁ

ミホ
ミホ

彼ね、実は『病に苦しみながら戦った武将』としても有名なんだよ

ケン
ケン

えっ、病気だったの!? それでも戦ったの?

ミホ
ミホ

そう。関ヶ原の戦いの時には、顔を布で覆って輿に乗って戦ったって記録があるの

ケン
ケン

なんで顔を隠してたの?恥ずかしかったのかな…?

ミホ
ミホ

それがね、当時は“らい病”つまりハンセン病だったって言われていたの

ケン
ケン

らい病って、昔すごく恐れられてた病気だよね…

ミホ
ミホ

そう。顔や手足に障害が出る病気で、差別もすごかったの

ケン
ケン

それなのに、武将として尊敬されてたの?

ミホ
ミホ

そうなの!それが大谷吉継のすごいところ。人望が厚くて、石田三成とも大の親友だったのよ

ケン
ケン

え、三成ってあの西軍のリーダーだよね?

ミホ
ミホ

うん。吉継は三成に恩を感じていて、他の大名が三成から離れる中でも最後まで味方したの

ケン
ケン

友情っていいなあ…でも、ハンセン病って診断って難しくない?

ミホ
ミホ

いいところに気づいたね。最近では、実は梅毒だったんじゃないかって説も出てるの

ケン
ケン

梅毒!?あれって当時ヨーロッパで大流行してたやつだよね?

ミホ
ミホ

そう。日本にも戦国時代には広まっていて、似たような症状があるから判断が難しいの

ケン
ケン

うわー、どっちにしても大変だ…

ミホ
ミホ

でもね、病に負けずに戦場に立ち続けた吉継の姿勢は、戦国武将の美学そのものだったのよ

ケン
ケン

吉継さん、尊敬する!

さらに詳しく

大谷吉継

大谷吉継の錦絵(東京都立図書館)

大谷吉継とは?

大谷吉継(おおたに よしつぐ、1559年頃~1600年)は、豊臣政権下で活躍した実務派の武将であり、豊臣秀吉に仕えた五奉行のひとり・石田三成の盟友として知られます。

出自は近江国の土豪とされ、若年期から豊臣家に仕え、知略と実務能力を高く評価されて出世を遂げました。特に内政や検地に優れていたとされ、越前敦賀城主として約5万石を領していました。文治派の武将でありながら軍事にも通じており、文武両道の存在として重宝されていました。

病の正体:ハンセン病か?それとも梅毒か?

大谷吉継が患っていた病について、古くは「らい病(ハンセン病)」とされてきました。これは顔を布で覆い、輿に乗って戦場に出たという逸話や、死後に顔を見られることを極端に嫌ったという伝承に基づくものです。ハンセン病は皮膚に潰瘍をもたらし、末梢神経の障害、顔貌の変形などが起こるため、こうした症状と符合します。

しかし近年、一部の研究者からは「実際には梅毒であった可能性が高い」との指摘もあります。梅毒もまた進行すれば皮膚に深刻な病変を引き起こし、当時の医療水準では区別が困難でした。さらに、戦国期には南蛮貿易などを通じて梅毒が全国に広まり、多くの武将や町人が感染していたとも言われています。

吉継の病がどちらであったかは断定できませんが、いずれにせよ人々の恐れと偏見の対象となる重病であったことは間違いありません。

忠義と友情の象徴:石田三成との絆

吉継と三成の友情は、戦国時代における「人の絆」の象徴的なエピソードです。三成が徳川家康に対抗して挙兵しようとした際、多くの大名は家康側に靡く中で、病を抱えた吉継は唯一、迷わず彼に加勢しました。吉継は「三成は冷たく見えるが、内に人情がある人物」と評し、その人柄を信じていました。

関ヶ原の戦いでは、吉継は西軍の要となる戦術家として布陣し、裏切りを予見して不安を抱きつつも戦場に向かいます。実際、かつての盟友・小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍は崩壊。吉継は敗戦を悟ると、自害して果てます。彼の死に様は「不自由な体をもってしてなお、信義を貫いた武士の鏡」と後世に語り継がれることとなりました。

差別と病を超えた美学

戦国時代の日本では、病気は「穢れ」として忌み嫌われる対象でした。特にハンセン病や梅毒など、外見に大きな影響を及ぼす病気は、患者本人だけでなく家族まで差別されることも少なくありませんでした。そんな中、大谷吉継は「顔を覆う」ことで他人に不快感を与えまいと配慮しながらも、堂々と輿に乗って戦場に立ちました。

この行動は、病に屈することなく最後まで「武士としての道」を貫くという、彼なりの「美学」とも言えるでしょう。病気を恥じて隠れるのではなく、人に迷惑をかけないよう配慮しつつ、誇り高く生き抜いたその姿勢は、まさに戦国の武士道そのものです。

まとめ

大谷吉継

大谷吉継は、病を患いながらも戦に出陣した数少ない武将の一人です。ハンセン病または梅毒という重い病気に苦しみながらも、親友・石田三成への忠義を貫き、関ヶ原の戦いで命を散らしました。彼の生き様は、病や障害を抱える人々にも勇気を与えるものとして、今なお語り継がれています。

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