要約
1575年、戦国時代の大一番「長篠の戦い」の前哨戦で、ある一人の武士が歴史に名を刻みました。その名は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)。彼は味方に危機を伝えるため敵陣を突破し、捕らえられてからも忠義を貫いたことで知られます。磔刑という壮絶な最期を迎えた彼の行動は、後世に「武士の鑑」として語り継がれています。本記事では、彼の生涯と長篠の戦いとの関わりを詳しく解説します。
ミホとケンの対話

ケン、鳥居強右衛門って知ってる?

えっ、トリイ…つよえもん? なんか名前からして強そう!

そうそう、実際めっちゃ強いっていうより“強い心”を持った人だったの

どんなことしたの? 戦国武将って感じ?

実は武将じゃなくて足軽に近い立場だったけど、とても勇敢な人だったのよ

へぇ~。それで何したの?

1575年、長篠の戦いの直前に、織田・徳川連合軍が籠もる長篠城が武田軍に包囲されたの

うわ、それはピンチだね!

そう。そのとき鳥居強右衛門は、味方に援軍を求めるため、敵の包囲網を抜けて走ったの

映画みたいじゃん! それで助け呼びに行ったの?

そう! 命がけで岡崎城まで行って、城の救援を願ったの

すごい! 無事帰れたの?

帰る途中で、残念ながら武田軍に捕まっちゃったの…

うわっ、それヤバいやつ…どうなったの?

武田軍は『援軍は来ないってウソを言えば命を助けてやる』って取引を持ちかけたの

え、それでウソついたの?

…つかなかったの。彼は城に向かって『もうすぐ援軍が来るぞ!頑張れ!』って叫んだの

それで!? 武田軍ブチギレじゃん!

うん…そしてそのまま磔にされて、命を落としたの

……マジか。忠義すごすぎて泣ける

ね、これが“武士の鑑”って言われる所以。名もなき兵でも歴史を動かすって本当にあるんだよ

あの叫びで士気が上がって、長篠の戦いに勝てたのかな

その通り!あの勇気がなかったら、戦況はもっと厳しかったかもしれないの

すねえもん…覚えた。なんか俺も頑張らなきゃって思えてきたよ!
さらに詳しく

落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図(東京大学史料編纂所蔵)
鳥居強右衛門とは?
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は、戦国時代の三河国(現在の愛知県)出身の武士で、徳川家康に仕えた家臣です。身分は高くなく、足軽あるいは中間(ちゅうげん)と考えられており、戦国武将ではない「名もなき兵士」として記録されています。しかし、ある行動をきっかけに、後世で「武士の鑑」と称えられる存在となりました。
長篠城の攻防と伝令の使命
1575年、武田勝頼が率いる武田軍は、織田・徳川連合軍が支配する長篠城(現在の愛知県新城市)を包囲しました。この時、城を守っていたのは奥平貞昌(信昌)を中心とした小勢で、兵糧も少なく、まさに風前の灯火の状況でした。
死地を抜けて援軍要請へ
この窮地を打破すべく、鳥居強右衛門は自ら志願し、徳川家康の本拠・岡崎城まで援軍を要請する伝令として出発しました。敵の厳しい包囲をくぐり抜け、約50kmの山道を踏破して岡崎城に到着し、状況を正確に伝えたのです。
壮絶な最期と忠義の叫び
岡崎での報告を受けた家康と信長はすぐに軍の編成を開始し、救援に向かうことを決定します。しかし、長篠城に戻る途中で、鳥居は武田軍に捕らえられてしまいます。
偽情報を強要される
捕らえられた鳥居に対し、武田軍は「援軍は来ないと城兵に伝えれば命は助ける」という取引を持ちかけました。これは情報戦の一環であり、士気を削ぐ目的がありました。
真実を叫び磔に
しかし、鳥居強右衛門はその取引に応じることなく、長篠城の城兵に向かって大声でこう叫びました。
「援軍は必ず来る!希望を捨てるな!」
これを聞いた武田軍は激怒し、彼を城の目の前で磔(はりつけ)刑にして処刑しました。その遺体は、見せしめとして数日間晒されたといいます。
歴史に残る忠義とその影響
この行動は織田・徳川連合軍の士気を大いに高め、実際にその後に行われた「長篠の戦い」での勝利につながっていきます。信長の鉄砲隊が活躍したことで有名な戦ですが、その影にはこのような忠義ある名もなき兵士の活躍があったのです。
歴史と文化に刻まれた名
鳥居強右衛門の逸話は、後の軍記物や講談、浮世絵などに多く取り上げられ、「武士道」や「忠義」の象徴として語られ続けています。地元である新城市には彼を祀った碑が立ち、今でも彼の勇気は称えられています。
まとめ
鳥居強右衛門は、身分の高い武将ではありませんでしたが、命をかけた行動で歴史に名を残しました。長篠の戦いを語る上で欠かせない存在であり、その忠義と勇気は多くの人々の心に残っています。彼のような名もなき英雄の存在こそ、戦国のリアルな一面を物語っています。
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