武士の情けは届かず…征夷大将軍・坂上田村麻呂が涙したアテルイ処刑の真実

坂上田村麻呂 平安時代

要約

坂上田村麻呂は平安時代初期の武将で、征夷大将軍として東北地方に住む蝦夷(えみし)との戦いに従事しました。中でも胆沢城造営中に降伏した蝦夷の英雄・阿弖利為(アテルイ)と母禮(モレ)の命を助けようと、田村麻呂は朝廷に強く嘆願します。しかし公卿たちはこれを拒否し、2人は斬首されてしまいます。これは朝廷の政治判断と、将軍としての田村麻呂の人間味が激しくぶつかった歴史的事件であり、後世に深い印象を与えることとなりました。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、アテルイって名前、聞いたことある?

ケン
ケン

えー?なんかRPGのラスボスみたいな名前だね!

ミホ
ミホ

実はね、平安時代に実在した蝦夷のリーダーなの。勇敢で、知略にも長けてたんだよ

ケン
ケン

え、蝦夷ってなに?外国の人?

ミホ
ミホ

ううん、当時の日本の東北地方にいた先住民族だよ。朝廷に対して独立を守ってたの

ケン
ケン

で、そのアテルイと戦ったのが田村麻呂って人なんだ?

ミホ
ミホ

そう。坂上田村麻呂っていう超有名な武将で、朝廷から“征夷大将軍”って特別な役職を任されてたの

ケン
ケン

征夷大将軍!なんか聞いたことあるぞ、それ!

ミホ
ミホ

初めて正式にその役職に任じられたのが田村麻呂なの。彼は戦いでアテルイたちに勝ったんだけど…

ケン
ケン

けど?

ミホ
ミホ

アテルイとその側近モレが降伏してきたとき、田村麻呂は命だけは助けてほしいって朝廷に頼んだの

ケン
ケン

おお、それって敵だったのに?

ミホ
ミホ

うん、彼らがただの“反乱者”じゃなくて、地域の指導者として戦っていたのを理解してたから

ケン
ケン

かっこいいじゃん、田村麻呂!で、朝廷はどうしたの?

ミホ
ミホ

悲しいことに、朝廷の公卿たちは『野蛮な民は信頼できない』って言って、2人を処刑しちゃったの

ケン
ケン

うわ…それ田村麻呂めっちゃショックだっただろうね

ミホ
ミホ

うん、史料には詳しく書かれてないけど、処刑に反対したって記録があるの。人間味のある将軍だよね

ケン
ケン

てことはさ、敵を理解して、和解の道を選ぼうとした人がいたってこと?

ミホ
ミホ

まさにそう。田村麻呂は戦だけじゃなく、平和的な解決も考えてたの。すごく現代的な考え方だよね

ケン
ケン

それにしても…アテルイたちのこと、もっと知られるべきじゃん!

ミホ
ミホ

そう思う。だから今もアテルイを顕彰する碑が建てられてたりするの

さらに詳しく

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)

坂上田村麻呂と蝦夷征討の背景

8世紀末から9世紀初頭、朝廷と東北地方に住む蝦夷との間には長年にわたる対立がありました。蝦夷は朝廷に服従せず、独自の生活と文化を守っていたため、中央政府はこれを「反乱」とみなし、度々武力による平定を試みていました。

この状況下で登場したのが、初代征夷大将軍として名高い坂上田村麻呂です。彼は延暦16年(797年)に征夷大将軍に任命され、延暦20年(801年)には約4万人の軍を率いて東北地方に出征します。

田村麻呂は、単なる武力行使だけでなく、現地の状況を理解しようとする姿勢も見せており、蝦夷との対話や和解の道を模索する柔軟な戦略家でもありました。

アテルイとモレの降伏

延暦21年(802年)、田村麻呂は胆沢城の造営を進める中で、ついに蝦夷の英雄である阿弖利為(アテルイ)母禮(モレ)の降伏を受け入れます。2人は500名余りの部族民を率いて出頭し、実質的に蝦夷勢力の終焉を意味する出来事となりました。

興味深いのは、2人が決して戦で捕えられたわけではなく、自ら進んで投降してきたという点です。彼らが田村麻呂との交渉を通じて、和平の道を望んでいたことがうかがえます。

田村麻呂は、この降伏をただの「勝利」とは捉えず、平和構築の第一歩とみなしていました。だからこそ、2人の命を助けたいという強い意志を持っていたのです。

命の保証を巡る将軍と公卿の対立

田村麻呂は平安京へ帰還後、アテルイとモレの命を救うよう朝廷に願い出ます。彼の主張はこうです。

「この二人を赦し胆沢に帰すことで、蝦夷の残存勢力を説得し、平和を確立することができる」

しかし、公卿たちはこれを強く拒否しました。彼らの論理は、こうした先例を残すことが中央の威信を損なうというものでした。朝廷の意見書には「夷狄は獣心を持ち、約束を守ることがない」と記されており、文化的偏見と恐れが深く根付いていたことがうかがえます。

その結果、田村麻呂の懇願は退けられ、アテルイとモレは河内国で斬首されました。

政治の理と武士の情のすれ違い

この事件は、戦略としての和平を考えていた田村麻呂と、権威維持を優先する政治中枢との考え方の違いを如実に示しています。

田村麻呂にとって、アテルイとモレは単なる敵ではなく、交渉相手としての尊敬すべき存在でした。降伏を受け入れ、命を保証するという「契約」を交わしたとも言える状況で、それを反故にされたことは、将軍としての誇りを深く傷つけたでしょう。

一方の朝廷は、降伏者を赦すことで他の反乱勢力に「優しすぎる」と見られ、統治の一貫性が揺らぐことを恐れていたと考えられます。特にこの時代、武力による制圧は「天皇の権威の発現」とされており、その前例を崩すことはできなかったのです。

アテルイ処刑の影響と後世の評価

アテルイとモレの処刑は、その後も語り継がれる事件となりました。近年では、彼らを英雄視する動きが強まり、特に岩手県水沢(奥州市)には彼らを顕彰する碑が建立されています。

また、田村麻呂の人間性も再評価されており、単なる武将ではなく、異文化との共存を考えた先駆者としての姿が注目されています。

将軍としての責務と、人としての倫理の間で揺れ動いた田村麻呂の姿は、現代においても深い示唆を与えてくれます。

まとめ

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は、単なる武人ではなく、和平の可能性を真剣に模索した稀有な人物でした。アテルイとモレの降伏を機に、東北の安定と共存を目指したものの、当時の朝廷はそれを認めませんでした。このエピソードは、中央権力の論理と地方の実情、そして武士としての人間的な情とのはざまで揺れた歴史のひとこまとして、今なお強く私たちの心に訴えかけるものがあります。

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