要約
足利尊氏は建武の新政に反旗を翻し、後醍醐天皇の軍に敗れて一時九州へ逃れました。しかしこの九州落ちは、やがて彼が幕府を開く逆転劇の始まりとなります。現地で勢力を立て直した尊氏は、ついに京都に戻り、室町幕府を樹立。九州での戦いと復活劇は、日本史に残る大きな転機でした。
ミホとケンの対話

ケン、足利尊氏って聞いたことある?

うーん、なんか将軍になった人だったっけ?

そうそう、室町幕府を開いた人。でも、最初から順風満帆じゃなかったんだよ

え、そうなの?てっきり最初から強かったのかと!

実はね、最初は後醍醐天皇の部下として戦ってたんだけど…途中で反旗を翻すの

え!?裏切ったの?なんでそんなことしたの?

建武の新政っていう改革に不満を持った武士たちの代表って感じだったの

ふむふむ…で、それで勝ったの?

いや、それが一度負けてるの。新田義貞たちに敗れて、なんと九州に逃げるんだよ

九州!?めっちゃ遠いじゃん!

そう、でもその九州がターニングポイントだったの

どうやって立て直したの?

九州の有力武士たち、たとえば少弐氏や大友氏の支援を受けて、兵力を回復したの

地元のボスたちを味方につけたってことか!

うん、それから多々良浜(たたらはま)の戦いで勝利して、逆に勢いがついたんだよ

多々良浜の戦い?なんか聞いたことあるような…

尊氏軍と菊池武敏率いる南朝軍が激突した戦いだね。尊氏がついに勝って、勢いづくの

それで京都に戻ってきたの?

そう!そしてまた新田義貞と戦って、ついに京都を奪還するの

なんか映画みたいな逆転劇だね…!

でしょ?だから九州は尊氏にとって“運命を変えた土地”って言われてるの

九州に逃げたっていうより、“九州で蘇った”って感じだね!
さらに詳しく

絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
足利尊氏とは?
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人であった足利氏の出身です。彼は当初、後醍醐天皇による「建武の新政」を支える立場にありましたが、やがてその体制に反発するようになります。
新政は理想主義的でしたが、現実的には武士たちの期待に応えることができず、不満が高まっていました。その中で尊氏は次第に反対勢力の中心人物となり、1335年に中先代の乱をきっかけとして鎌倉に入るなど、徐々に独自の動きを見せます。
九州へ逃れた理由
1336年、足利尊氏は一度、後醍醐天皇側の軍(南朝)との戦いに敗れ、九州へ敗走します。この時、尊氏は新田義貞や楠木正成らに敗れ、京都から撤退を余儀なくされました。
しかしこの敗北は、単なる敗走ではなく、「再起のための戦略的撤退」でもありました。尊氏は自軍を立て直すため、九州という新たな拠点を選んだのです。地理的に本州の戦線から距離があり、独自の武士勢力が多く存在する九州は、再起を図るには最適の場所でした。
九州での再起と同盟形成
地元豪族との連携
尊氏は九州で、少弐頼尚(しょうによりなお)や大友貞載(おおともさだのり)といった有力武士たちと同盟を結びます。彼らの支援により軍を再編し、尊氏は新たな勢力として台頭していきました。
当時の九州は、中央の権力から距離があったこともあり、地元の武士たちは独立志向が強く、中央の混乱に乗じて発言力を高めようとしていました。そのため、尊氏という「反後醍醐」の旗印は、彼らにとっても魅力的だったのです。
多々良浜の戦い
1336年3月、尊氏軍は筑前国(現在の福岡県)の多々良浜で、南朝側の菊池武敏(きくちたけとし)率いる軍と激突します。この戦いは、九州における支配権を巡る大規模な合戦でした。
尊氏は見事この戦いに勝利し、軍の士気と信頼を大きく回復します。この勝利により、南朝側の影響力は九州で大きく後退し、尊氏は再び京都への進軍を開始することになります。
京都奪還と室町幕府の成立
多々良浜の勝利後、尊氏は海路を使って兵を東へ進め、再び京都へと向かいます。途中で新田義貞らとの再戦を経て、同年6月には京都を奪還。これにより後醍醐天皇は吉野へ逃れ、「南北朝時代」が始まります。
そして1338年、足利尊氏は正式に「征夷大将軍」に任命され、室町幕府を開きます。九州での敗走から立ち上がり、わずか2年余りで政権を掌握した尊氏の行動は、日本史上でも稀に見る逆転劇といえるでしょう。
まとめ
足利尊氏は一時的に敗れて九州へと逃れますが、そこで地元勢力と手を結び、戦力を回復して再び東上。多々良浜の戦いで勝利したことで形勢は逆転し、最終的には京都を奪還して室町幕府を開きました。九州での敗走と再起こそが、尊氏を天下人へ導いた重要な転機となったのです。
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