シーボルトがスパイ?禁断の地図を巡る国外追放劇の真相

シーボルト 江戸時代

要約

江戸時代後期、ドイツ人医師シーボルトが日本から極秘地図「大日本沿海輿地全図」を国外に持ち出そうとした事件が発覚し、彼は国外追放処分となりました。このシーボルト事件では、幕府高官や蘭学者らが多数処罰され、後の蛮社の獄につながる蘭学弾圧の前兆ともなりました。事件の裏には諜報活動の疑惑も絡み、江戸時代の国防意識や学問の危うさが浮き彫りになります。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねえケン、江戸時代に外国人が日本から秘密の地図を持ち出そうとして大騒ぎになった事件って知ってる?

ケン
ケン

えっ、それスパイ映画みたいな話だね!?そんなことあったの?

ミホ
ミホ

実はね、1828年に起きた“シーボルト事件”のことなの。主人公はドイツ人医師のシーボルト!

ケン
ケン

あ、シーボルトってあの植物とか医学に詳しい人?鳴滝塾の先生だよね?

ミホ
ミホ

そうそう!でも彼、日本滞在中に日本の地理情報をこっそり持ち出そうとして、国外追放されちゃったの

ケン
ケン

なんでそんな地図が重要なの?ただの旅行ガイドじゃないの?

ミホ
ミホ

全然違うの!シーボルトが手に入れたのは、伊能忠敬が作った『大日本沿海輿地全図』っていう、当時世界屈指の精密地図。国防上のトップシークレットだったのよ

ケン
ケン

えっ、そんなの外国に渡ったら日本の守りが丸見えじゃん!

ミホ
ミホ

まさにそれが問題だったの。シーボルトは江戸でこの地図を、高橋景保っていう幕府の天文方の役人から手に入れたの

ケン
ケン

うわ?、どうしてそんな重要な地図を外国人に渡しちゃったの?

ミホ
ミホ

景保も見返りがあったの。シーボルトが持っていた『世界周航記』っていう海外の貴重な航海記録がほしかったのよ。情報の物々交換ね

ケン
ケン

でもそれって…やばいよね?

ミホ
ミホ

うん、やばかった。結局、間宮林蔵っていう探検家に送った手紙がきっかけでシーボルトの活動がバレちゃったの

ケン
ケン

手紙がバレた!?何が書いてあったの?

ミホ
ミホ

蝦夷の植物資料がほしいって内容。でも外国人にそういうの渡すのは禁止だったから、間宮が上司に報告しちゃったの

ケン
ケン

告発かぁ…でも地図を渡した人たちってどうなったの?

ミホ
ミホ

景保は投獄されて、牢屋で亡くなったあと、なんと死体に対してまで斬首の刑を受けたの

ケン
ケン

えぇっ!?死んでるのに斬首!?怖すぎるよ幕府…

ミホ
ミホ

他にも奥医師の土生玄碩は改易、シーボルトの弟子たちも処罰されたわ。まさに“蘭学狩り”の始まり

ケン
ケン

でもさ、シーボルトって国外追放されたあとどうなったの?

ミホ
ミホ

オランダに戻って、ちゃんとその伊能図を元にした日本地図を出しちゃってるの。ばっちり持ち出し成功…

ケン
ケン

なにそれ!結局やっちゃったのかい!

ミホ
ミホ

うん。でもそれで日本はますます海外に警戒するようになるし、逆に世界は日本の地理を詳しく知ることになったのよ

ケン
ケン

地図一枚でそんなに世界が動くなんて…すごいドラマだね!

ミホ
ミホ

そうね。この事件は単なるスキャンダルじゃなくて、学問、外交、国防が交錯した“知の戦争”だったのよ

ケン
ケン

シーボルト、ただの博物学者じゃなかったんだね…もしかしてスパイだった?

ミホ
ミホ

それは今でも議論されてるけど、調査任務がついていたのは確か。スパイっぽい動きもしてるわね

ケン
ケン

うわ?。まさに“知識は力”ってやつだ…!

さらに詳しく

シーボルト

シーボルト(川原慶賀 作)

シーボルトとは?

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年にドイツ・ヴュルツブルクで生まれた医師であり、同時に博物学者・植物学者としても知られています。彼は医師としての資格を持ちながら、自然科学への関心が深く、オランダ東インド会社の軍医として赴任。その後、日本研究への情熱から出島のオランダ商館医として1823年に来日しました。

長崎郊外に設立した鳴滝塾では、蘭学(西洋医学や科学)を学ぶ日本の若者たちに教えを施し、高野長英伊東玄朴など、多くの後進を育てました。彼の活動は医学だけにとどまらず、日本文化・地理・生物の調査収集へと広がり、西洋に日本を紹介する先駆者の一人となります。

大日本沿海輿地全図とは?

江戸時代後期、日本の測量界における最大の成果の一つが伊能忠敬による測量事業です。

この成果が結実したのが、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(1821年完成)です。全国の海岸線や内陸部を正確に記録したこの地図は、当時のヨーロッパ諸国の地図技術をも凌ぐ精度を誇っており、まさに国防上の機密情報でした。

幕府はこの地図を厳重に管理し、国外への流出を一切禁じていました。そのため、シーボルトがこの地図を所持していたことは、国家の安全保障に対する重大な脅威と受け止められたのです。

事件発覚の経緯

この事件の発覚には複数の説がありますが、近年の研究によって定説が変化しています。

かつては、「シーボルトが積み荷に紛れて地図を持ち出そうとし、台風で座礁した船から荷物が流出し、そこから発覚した」という積荷発覚説が有力でした。しかし1996年以降、梶輝行らの研究により、この説は創作である可能性が高まりました。

代わりに注目されているのが、江戸での露見説です。これは、シーボルトが間宮林蔵に送った書簡が問題視され、そこから彼の活動が調査されるに至ったというものです。

中野用助の報告書

2019年には、長崎の商人・中野用助が江戸本店に送った報告書が発見され、事件の全容が江戸からの通報によって長崎でシーボルトが取り調べを受けたという証言を裏付けました。

高橋景保と関係者の運命

幕府の書物奉行兼天文方筆頭であった高橋景保は、シーボルトに対し「大日本沿海輿地全図」の写しを提供した人物です。

彼自身は地図の国防的重要性を理解していたものの、見返りとして世界航海記を得ようとした動機が事件の引き金となりました。1829年、獄中で死亡したのち、死体に対してさえも斬首刑が執行されました。

その他の処罰者

土生玄碩:眼科医として奥医師に仕え、シーボルトと交流があり、三つ葉葵の紋を含む服を贈ったことを問題視され改易・終身禁固(のち赦免)。 – 二宮敬作川原慶賀馬場為八郎ら鳴滝塾関係者や通詞たちも処罰。 – 家族・召使いまで含めて、約50名以上が処分されたとされます。

シーボルトの立場と再渡航

シーボルト自身は幕府の尋問に対し、「学術的な目的で地図を持っていただけ」と主張。日本への忠誠心を示すため、終生日本に住む覚悟があると申し出ました。彼の誠実な姿勢により、何人かの関係者は重罪を免れたとも伝えられています。

しかし、幕府は彼にスパイ活動の疑いを捨てきれず、1829年に国外追放および再渡航禁止の処分を下しました。

密かに持ち出された伊能図

表向きには押収されたとされていた伊能図の写しですが、実際にはシーボルトがひそかに国外へ持ち出していたことが判明しています。1840年、オランダで日本地図が刊行され、それが証拠となりました。

その後1858年の日蘭修好通商条約により、追放処分は解除。1859年に再来日し、幕府の外交顧問も務めることになります。

事件の意味とその後

この事件は、幕府の情報統制の厳格さと、近代化を求める学問の自由との深刻なジレンマを示しています。蘭学という知識のネットワークが一つの政治的リスクと見なされる時代背景の中で、シーボルト事件は「蛮社の獄」へと続く蘭学弾圧の前触れとなりました。

また、江戸幕府が外交・防衛に対してどれほど神経質であったかを理解するうえでも、この事件は重要な歴史的転換点です。

まとめ

シーボルト

シーボルト事件は、江戸後期の情報と外交における重大な転換点となった出来事でした。精密な日本地図をめぐって起きたこの事件は、ただの違反行為ではなく、日本と西洋の「知」のぶつかり合いでした。地図一枚が命を奪い、未来を変える力を持っていたのです。

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