オットセイ将軍?大奥に入り浸る徳川家斉「50人以上子ども伝説」の真相

江戸時代

要約

徳川幕府11代将軍・徳川家斉は、異名「オットセイ将軍」と呼ばれました。その由来は、現代でいう精力剤にあたる「オットセイを原料とした薬」を愛用していたという逸話からです。精力剤の効果もあり、大奥との関係が活発で、50人を超える子をもうけたとも言われています。今回は、この逸話の真相と江戸時代の健康法、そして家斉の治世の裏側に迫ります。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、“オットセイ将軍”って聞いたことある?

ケン
ケン

うーん…水族館の話じゃないよね?

ミホ
ミホ

違うよ(笑)。江戸時代の将軍、徳川家斉のあだ名なの

ケン
ケン

将軍がオットセイ!?なんでそんな名前ついたの?

ミホ
ミホ

実は、オットセイを使った精力剤を常用していたって話があるのよ

ケン
ケン

えっ!?オットセイって食べられるの!?

ミホ
ミホ

当時、オットセイの生殖器や内臓を乾燥させて粉末にし、滋養強壮剤として使っていたの

ケン
ケン

うわぁ…なんかすごい時代だな

ミホ
ミホ

それを家斉が愛用していたって記録があって、それで“オットセイ将軍”と呼ばれるようになったの

ケン
ケン

ってことは…すごく元気だったってこと!?

ミホ
ミホ

そうみたい。実際に側室は40人以上、子どもは55人以上いたって言われてるからね

ケン
ケン

うわ…サッカー選手かってくらい体力ありすぎ!

ミホ
ミホ

その精力ぶりが、大奥の中でも有名だったみたい

ケン
ケン

でも、将軍がそんなに元気すぎて大丈夫だったの?

ミホ
ミホ

一方で、政治はほとんど老中たちに任せきり。特に贅沢や女性に力を入れていたから批判も多かったよ

ケン
ケン

やる気がオットセイ方向に偏ってる…

ミホ
ミホ

うまいこと言うね(笑)。でもそれが幕府の財政を圧迫したとも言われてるの

ケン
ケン

薬で元気になっても、国が元気じゃなきゃ意味ないよね

ミホ
ミホ

そう。オットセイの薬は効いたかもしれないけど、幕政にはあまり効果がなかったみたいね

ケン
ケン

ところで、その薬って、庶民も使ってたの?

ミホ
ミホ

一部の裕福な商人や医者の間では流行っていたらしいわ。でも高価だったから一般庶民には難しかったかな

ケン
ケン

将軍クラスじゃないと飲めないオットセイドリンク…

ミホ
ミホ

まさにね。だけど家斉の時代は平和だったから、そんなことが許されたとも言えるの

ケン
ケン

でもやっぱり、政治もちゃんとしてほしかったよね

ミホ
ミホ

確かに。でも面白い逸話として今に語り継がれてるのも事実よ

さらに詳しく

徳川家斉とはどんな将軍か?

徳川家斉

徳川家斉(徳川記念財団蔵)

徳川家斉(とくがわ いえなり、1773〜1841)は、江戸幕府第11代将軍で、1787年から1837年まで、実に50年という歴代最長の在職期間を誇る将軍です。将軍に就任したのはわずか15歳のときで、治世中には文化・文政時代と呼ばれる安定期を経験しました。

戦乱が少なく、町人文化や芸術が花開いたこの時代は、一見すると理想的な「泰平の世」のように思われがちですが、その裏側には家斉自身の私生活と政治放棄が大きく関係しています。

特に家斉は、将軍職の権威を背景にして、贅沢な生活を好み、政治には積極的に関与しませんでした。そのため、実質的な政務は老中や側近に委ねられることが多く、とりわけ幕政改革を進めた松平定信との確執は有名です。

家斉は定信の厳格な倹約政策を嫌い、彼を排斥することで、豪奢な暮らしを再開したとも言われています。

“オットセイ将軍”と呼ばれた理由

オットセイ

「オットセイ将軍」という異名の由来には諸説ありますが、有力な説の一つが、家斉がオットセイを原料とした精力剤を愛用していたという逸話です。

江戸時代の医薬知識は中国医学(漢方)と深く結びついており、動物の身体の一部を使った強壮薬が多く存在しました。特に、オットセイの陰茎や内臓を乾燥させたものは、精力増進や長寿の薬として扱われ、当時の上流階級では高価ながら人気のある薬でした。

このような薬を常用していたとされる家斉は、実際に40人以上の側室を抱え、50人以上の子どもをもうけた記録が残っています。この精力的な性生活と、精力剤との結びつきが、あだ名「オットセイ将軍」の背景にあります。

つまり、動物のような旺盛な性力を持ち、かつそれを支える薬を使っていた将軍という皮肉と風刺が込められた名称だったのです。

江戸時代の精力剤と健康観

江戸時代には、現代で言うところの“サプリメント”や“健康食品”にあたるものが、漢方薬や動物性薬品という形で多数存在していました。

オットセイ以外にも、熊胆(ゆうたん:熊の胆のう)、鹿茸(ろくじょう:鹿の角)、海馬(かいば:タツノオトシゴ)など、珍奇な原料を用いた薬は「仙薬(せんやく)」とされ、高級品として上流階級に流通していました。

これらの薬は、精力増強、疲労回復、老化防止といった目的で服用され、長寿信仰や不老不死思想とも結びついていました。家斉のような将軍は、国家予算とも言える幕府の財力を背景に、こうした希少薬を自由に入手できる立場にあったため、日常的に服用していた可能性は高いとされています。

家斉の私生活が幕政に与えた影響

家斉の私生活はまさに「贅沢三昧」でした。大奥では、豪華な衣装や調度品、贈答品が飛び交い、年中行事もきらびやかに行われました。側室の人数や出産にかかる費用、育児にあたる人員の確保なども、すべて幕府の財政を通してまかなわれていたため、その影響は無視できません。

特に問題となったのは、大奥を通じた金銭の流出です。大奥では将軍の寵愛を得るために側室同士の競争も激しく、派閥争いや賄賂などが横行していたと伝えられています。こうした浪費癖が続いたことで、幕府財政は次第に圧迫され、農民への増税や不満の高まりを招きました。

家斉の治世は外面的には平穏で文化的な時代とされますが、実質的には将軍が統治を放棄し、個人の快楽と贅沢を優先した時代でもありました。やがて訪れる幕末の混乱の兆しは、すでにこの時代に始まっていたのです。

家斉の評価をどう見るか

家斉に対する評価は現在でも分かれます。一方では、平和な時代を長く維持し、町人文化の発展を支えた「文化の保護者」としての面があります。浮世絵、歌舞伎、読本などが庶民の間に広がり、江戸は世界有数の大都市として繁栄しました。

しかしその一方で、政治への無関心、贅沢な生活、そして精力剤を象徴するような将軍像は、後の幕府の衰退に大きく影響を与えたと見る向きもあります。家斉は政治よりも健康と快楽を選んだ将軍であり、その象徴が“オットセイ”だったのかもしれません。

まとめ

徳川家斉像(徳川記念財団蔵)

徳川家斉が「オットセイ将軍」と呼ばれたのは、オットセイを原料とした精力剤を愛用していたという逸話に由来します。その効き目もあり、50人以上の子どもをもうけたとされ、大奥での豪華な生活ぶりも知られています。平和な時代背景が許したその暮らしは、江戸文化を育む一方で、幕府の弱体化を進める要因ともなりました。

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