明治時代に起こった日本最後の仇討ちとされる臼井六郎が父母の敵を討つまでの復讐劇

臼井六郎 日本の近代

要約

臼井六郎は、幕末の動乱で両親を暗殺され、11歳で復讐を誓った士族です。明治に入り仇討ちは違法とされるなか、13年の歳月をかけて仇を探し続け、23歳のとき東京でついに仇を発見。正面から討ち果たすも、明治政府の仇討ち禁止令により裁かれ、模範囚として懲役生活を送ったのち、特赦により出獄。幕末から明治へと移り変わる時代の価値観に翻弄されながらも、武士の誇りを貫いた“最後の仇討ち”の物語です。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、『最後の仇討ち』って聞いたことある?

ケン
ケン

んー、なんか時代劇っぽい?お侍が敵討ちするやつ?

ミホ
ミホ

そうそう。でもそれが、明治になって法律で禁止されたあとにも、実行されたの。

ケン
ケン

え!?それってもう犯罪じゃん…誰がやったの?

ミホ
ミホ

臼井六郎っていう人。たった11歳の時に両親を目の前で暗殺されて、13年後にその仇を討ったのよ。

ケン
ケン

13年!?それってもう、復讐ってより執念じゃん…

ミホ
ミホ

まさにそう。でもね、その過程がまた凄まじいの。剣術修行して、上京して、山岡鉄舟の道場に入門して…

ケン
ケン

え?あの山岡鉄舟?あの人、有名な剣豪でしょ!?

ミホ
ミホ

うん。鉄舟も、勝海舟も彼の素質に目をかけてたの。けど、彼が仇討ちを決行するとは思ってなかったみたい。

ケン
ケン

じゃあさ、どうやって仇の人を見つけたの?

ミホ
ミホ

仇の名前は山本克己、のちの一瀬直久って改名してて、東京の裁判所に勤めてたの。六郎はずっと探して、ようやく銀座で発見!

ケン
ケン

ついに来たー!!で、どうやって討ったの?

ミホ
ミホ

黒田藩邸での集まりの場で、偶然一瀬が現れて、二人きりになった瞬間、短刀で胸と喉を突いて討ったの。

ケン
ケン

すご…でもさ、それって法律違反じゃん?捕まったの?

ミホ
ミホ

自首したわよ。で、終身禁固の判決を受けて収監されたの。

ケン
ケン

うわぁ…それって死刑でもおかしくなかったんじゃ…?

ミホ
ミホ

本来は死罪。でも、時代の背景や世間の同情もあって減刑。模範囚として過ごして、特赦で10年後に釈放されたのよ。

ケン
ケン

なんか…時代の流れと逆らって生きた人って感じするね…

ミホ
ミホ

まさにその通り。“武士の誇り”を貫いた最後の仇討ちだったわ。

ケン
ケン

それにしても、六郎の執念、すごすぎる…。復讐って正義なのかな…?

ミホ
ミホ

難しい問題ね。だからこそこの話が100年以上たった今でも語り継がれてるのよ。

ケン
ケン

うん…なんかちょっと泣けてきた。

ミホ
ミホ

彼の行動は是非はともかく、”生きた歴史”そのものよ。

さらに詳しく

臼井六郎

臼井六郎(明治24年の仮出獄の際のものと推定)

明治の仇討ち禁止令とその影響

明治政府は、明治6年(1873年)に「仇討ち禁止令」を発布しました。これは封建時代の私的報復制度を否定し、近代法治国家の確立を目指す象徴的な政策の一つでした。これにより、それまで武士の名誉行為とされてきた仇討ちは、明確な殺人罪として処罰の対象となります。

臼井六郎が仇討ちを実行したのは、この法令から7年後のことでした。つまり、時代に逆らう形で仇討ちを決行したことになります。

臼井六郎の仇討ちの背景

六郎の父・臼井亘理は秋月藩の家老で、佐幕の開明派として藩政の要職にありました。しかし幕末の政争により、攘夷派(干城隊)に襲撃され、1868年に暗殺されます。母も同時に殺され、事件は藩内で黙認されるという理不尽な結末を迎えました。

当時わずか11歳だった六郎は、両親の死体の凄惨な姿を目にし、深い怒りと悲しみによって復讐を誓います。しかし仇の名前は明かされず、やがて山本克己(後の一瀬直久)萩谷伝之進が犯人だと判明。六郎は文武両道を目指して努力しながら、13年間にわたって仇の行方を探し続けました。

仇討ち決行の瞬間

1880年12月17日、六郎はついに仇の一瀬直久と東京・銀座の旧秋月藩主邸で遭遇します。機を見て建物の階下に先回りし、短刀を携えて待ち伏せ。一瀬が階段を降りてきたところで、「父の仇、覚悟せよ」と声をかけて刺突し、組み伏せて喉元を切ってとどめを刺しました。

その後、六郎はすぐに自首。事の顛末を明かし、取り調べでは「法を犯す覚悟はしていた」と答えています。

裁判と服役

六郎の行動はたちまち新聞に取り上げられ、「最後の仇討ち」として大きな注目を集めます。一般市民の間では彼を「義士」として称賛する声も多く、講談や芝居にも取り上げられました。しかし、明治政府は世論と法の板挟みに苦しみます。

1881年9月22日、六郎には終身禁獄刑が宣告されました。本来であれば死罪となるところでしたが、閏刑(身分による減刑制度)と世論の影響で刑が軽減されたと考えられています。

服役先の小菅集治監では、六郎は模範囚として規律を守り、和歌や詩文に親しむ日々を送りました。山岡鉄舟の夫人・英子や勝海舟からも物資や言葉の支援があり、彼の精神的支柱となりました。

出獄とその後の人生

1889年の大日本帝国憲法発布による恩赦で禁獄10年に減刑され、1891年、34歳で釈放されます。釈放の日には、支援者らが東京・根津で慰労会を開き、大井憲太郎や伊庭想太郎といった著名人が集まり、六郎の帰還を祝福しました。

その後の人生では、大陸渡航を経て九州・門司や鳥栖に移住し、商売をしながら静かに暮らしました。1906年には加藤ゐえと結婚し、養子を迎えて家庭を築きます。1917年に病没し、両親の墓のある秋月・古心寺に埋葬されました。

歴史に残る“最後の仇討ち”の意味

臼井六郎の仇討ちは、封建道徳と法治主義が交差する歴史的な事件です。彼の行動は、現代の倫理観では測りきれないものでありながら、武士道精神と時代の転換を象徴する物語として、今も語り継がれています。

まとめ

臼井六郎

臼井六郎の仇討ちは、武士としての誇りと、近代法治国家の理念が正面からぶつかった事件です。復讐心に燃えながらも、13年という長い時間をかけて冷静に準備を重ね、ついに仇を討った彼の生き様は、時代の転換点における「個人の正義」と「国家の法」が交錯した極めて貴重な実例です。賛否を超え、臼井六郎の名は“最後の武士”として歴史に刻まれました。

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