隋の皇帝がブチギレた?小野妹子が渡した国書の衝撃中身とは

小野妹子 古墳・飛鳥時代

要約

飛鳥時代、日本は隋との正式な国交を求め、小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣しました。聖徳太子が作成した国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言があり、隋の皇帝・煬帝を激怒させたと伝えられます。この記事では、その外交的波乱と背景を対話形式で解説します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、小野妹子って聞いたことある?

ケン
ケン

え、小野妹子? 女の人…じゃないよね?

ミホ
ミホ

うん、よく間違えられるけど、男性の官僚なの。飛鳥時代に遣隋使として中国の隋に渡ったんだよ

ケン
ケン

遣隋使って…なんか歴史の授業で聞いたかも?

ミホ
ミホ

日本が中国から文化や制度を学ぶために派遣した使節団だね。小野妹子はその代表だったの

ケン
ケン

へぇ?。でも、それがどうしたの?

ミホ
ミホ

彼が隋に持っていった国書に、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』って書いてあったの

ケン
ケン

え、それどういう意味?

ミホ
ミホ

簡単に言うと、『日が昇る場所にいる日本の天皇が、日が沈む場所にいる中国の皇帝に手紙を送る』ってこと

ケン
ケン

へぇ?、ロマンチック…でも何か問題があったの?

ミホ
ミホ

実はこの言い方、中国の皇帝に対して“対等な立場”を主張してるように聞こえるの

ケン
ケン

あー、中国って昔は自分が一番って考えてたんだよね?

ミホ
ミホ

そう、『中華思想』って言って、自分たちが世界の中心だと思ってたの。だから隋の煬帝はこの国書にカチンときたらしいよ

ケン
ケン

うわ、外交トラブル!? 小野妹子、怒られた?

ミホ
ミホ

記録によると怒ったみたいだけど、それでも日本との関係は保ちたかったみたい。だから妹子たちは無事に帰ってこられたの

ケン
ケン

よかった?…って、無事に帰ったんなら万事OKじゃん

ミホ
ミホ

ところが帰国後、煬帝からの返事の書状を『失くした』って報告したの

ケン
ケン

えっ、それってヤバくない!? 国家機密じゃん!

ミホ
ミホ

そう、かなり大問題。だから一度は捕まってしまったの

ケン
ケン

妹子、ピンチじゃん!

ミホ
ミホ

でも最終的には許されて、再び遣隋使として派遣されたんだよ

ケン
ケン

メンタル強すぎ…!で、また無くしたりしてないよね?

ミホ
ミホ

大丈夫、その時は多くの留学生と一緒にしっかりと中国文化を学んで帰ってきたの

ケン
ケン

妹子さん、かっこいいな…名前だけでナメてごめん!

さらに詳しく

小野妹子

小野妹子(斑鳩寺蔵『聖徳太子勝鬘経講讃図』より)

小野妹子とは?

小野妹子(おののいもこ)は、飛鳥時代に活躍した日本の官僚であり、冠位十二階で最高位の一つである大徳にまで昇進した人物です。「妹子」という名前から女性と誤解されがちですが、れっきとした男性です。彼は聖徳太子と推古天皇の命を受けて、中国の隋(ずい)に遣隋使として派遣され、日本と隋の間で初の本格的な外交交渉を行いました。

遣隋使とは?

遣隋使とは、7世紀初頭に日本が中国・隋へ派遣した外交使節団のことです。目的は、当時アジアの最先進国であった隋の文化や制度、特に中央集権的な政治体制や仏教文化を取り入れ、日本の国家体制を整備するためのものでした。初めての派遣は607年で、この時に小野妹子が大使として選ばれました。

背景にある国際情勢

煬帝

隋の第2代皇帝・煬帝


当時、中国では隋が南北朝の分裂を統一して巨大な国家を築いていました。一方の日本では、まだ豪族による支配体制が続いており、国家としての体制整備が急務でした。聖徳太子は、中国の制度を取り入れることで日本を近代化しようと考え、その一環として遣隋使の派遣を決めたのです。

問題となった国書の文言

小野妹子が隋に持参した国書には、聖徳太子の意向を反映した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言が書かれていました。これは、日本の天皇が中国の皇帝と対等な立場であることを示す表現でした。

中華思想との衝突

隋の皇帝である煬帝(ようだい)は、自国を「世界の中心」と見なす中華思想を持っており、他国の支配者は「皇帝」ではなく「王」として従うべき存在と考えていました。そのため、日本の天皇を「天子」と称し、しかも「日出ずる処」として自らを優位に位置づけたこの表現は、煬帝の怒りを買う結果となりました。

外交危機と返書の紛失

煬帝は不快感を抱いたものの、日本からの使節団をすぐに拒絶することはなく、一定の儀礼をもって応対しました。これは、隋が東アジアにおける影響力を広げたい意図もあったからです。問題は帰国後に発生しました。

小野妹子は煬帝からの返書を携えて帰国したものの、その返書を途中で紛失したと報告しました。これは重大な外交上の失策と見なされ、一時は逮捕・拘束されたという記録もあります。国書の内容には機密情報も含まれていた可能性があるため、その紛失は国家的な問題とされました。

再びの遣隋使とその成果

とはいえ、小野妹子は最終的に許され、609年に再び遣隋使として派遣されます。この際は、多くの留学生や学問僧を伴い、仏教、法制度、建築技術、衣服、暦など隋の先進文化を日本に持ち帰るという大きな成果を上げました。

この第2回遣隋使には、有名な学問僧である高向玄理南淵請安なども含まれており、彼らは後に日本の律令制度や仏教政策に多大な影響を与える存在となります。

歴史的意義

小野妹子が行った遣隋使は、日本が独立した国家として外交交渉を行った最初の試みであり、その内容は後の国家体制の礎となりました。聖徳太子の政策と相まって、中央集権的な国家体制や仏教を軸とした文化政策が形づくられていきます。

また、日本が中国と対等な外交関係を志向した姿勢は、その後の遣唐使や国風文化にも影響を与え、「日本」という国の自己認識を深める契機となりました。

まとめ

小野妹子

小野妹子は飛鳥時代に隋へ渡った日本の官僚で、聖徳太子が託した国書により中国・隋の皇帝・煬帝の怒りを買ったと伝えられます。彼はそれでも使命を全うし、日本の制度と文化に多大な影響を与えました。その勇気と外交手腕は、日本の歴史において極めて重要な役割を果たしました。

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