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大久保利通、実は極貧育ち!? その壮絶すぎる少年時代とは

大久保利通 日本の近代

要約

大久保利通は明治維新を支えた立役者のひとりですが、実は少年時代からかなりの貧乏生活を強いられていました。薩摩藩士の家に生まれながら、父の失職により生活は困窮。その中でも努力を重ね、のちに近代日本の礎を築く存在となったのです。この記事では、そんな大久保の知られざる苦労時代を中心に、彼の人間性や背景についてわかりやすく紹介します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねえケン、大久保利通って名前、知ってる?

ケン
ケン

うん、西郷隆盛と一緒に明治維新をやった人だよね?

ミホ
ミホ

そうそう!でもね、大久保って子どもの頃はめちゃくちゃ貧乏だったんだよ

ケン
ケン

えっ!? 武士なのに貧乏ってどういうこと?

ミホ
ミホ

薩摩藩の下級武士だったんだけど、お父さんが役職を外されて、収入がゼロに近くなっちゃったの

ケン
ケン

えぇー…それでどうやって生活してたの?

ミホ
ミホ

母と一緒に内職して、弟妹の面倒も見て、灯油が買えないから月明かりで勉強してたっていう逸話もあるよ

ケン
ケン

月明かり!? それ、目が悪くなりそう…

ミホ
ミホ

しかも学校に持ってくお弁当も、麦飯と梅干しだけとかね

ケン
ケン

うわあ、めっちゃストイックだな…それで挫折しなかったのがすごい

ミホ
ミホ

そういう努力があったから、明治政府でも地道に仕事を進める実務派になれたんだよ

ケン
ケン

西郷さんみたいなカリスマとはまた違う感じなんだね

ミホ
ミホ

うん、大久保は“縁の下の力持ち”タイプ。でもその分、敵も多かったの

ケン
ケン

え、敵? 何かやっちゃったの?

ミホ
ミホ

やっちゃったというより、改革を進めすぎたの。増税や徴兵制、廃刀令とか、反発を招く政策が多かったから…

ケン
ケン

あー、生活が変わるのってみんな嫌がるもんね

ミホ
ミホ

その結果、恨みを買ってしまって…1878年、東京・紀尾井町で暗殺されちゃったの

ケン
ケン

えっ…殺されたの!?

ミホ
ミホ

うん。元士族たちの不満が爆発して、6人に襲撃されて命を落としたの

ケン
ケン

うそ…どんな最後だったの?

ミホ
ミホ

馬車で移動中に、待ち伏せされて、抵抗する間もなく斬りつけられたの。享年49歳だったよ

ケン
ケン

49歳…若いなぁ。せっかく日本を変えたのに

ミホ
ミホ

でもね、大久保の死を惜しんだ人も多くて、葬儀ではたくさんの人が涙を流したって

ケン
ケン

きっと、誠実で真面目な人だったんだろうな

ミホ
ミホ

うん。彼の家計簿を見た人は、あまりの倹約ぶりに驚いたって。私利私欲がまったくなかったの

ケン
ケン

貧乏から始まって、最後まで無駄遣いしなかったんだね…本当にすごい人だ

さらに詳しく

大久保利通

明治維新の大久保利通

大久保利通とは?

大久保利通(おおくぼ としみち、1827〜1878)は、明治維新の三傑の一人として知られる政治家であり、明治政府の中枢を担った実務派のリーダーです。西郷隆盛や木戸孝允とともに幕末から明治にかけての大改革を推進し、中央集権国家の礎を築きました。地租改正、徴兵制、廃藩置県など近代化に向けた制度改革を冷静かつ着実に進め、日本の近代国家形成に大きく貢献しました。

極貧の少年時代と壮絶な生活

灯油が買えず、月明かりで読書

大久保は薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。幼少期から非常に貧しく、特に父・利世が藩の役職を免ぜられたことにより、家計はさらに困窮します。
生活費を切り詰める中、灯油を買う余裕すらなく、夜の読書は月明かりで行っていたと伝えられています。暗い部屋で黙々と本を読む姿は、後に「努力の象徴」として語られるようになります。

質素な食事と破れた衣服

藩校・造士館に通っていたころ、彼の弁当はいつも麦飯と梅干しだけ。周囲の子どもたちにからかわれることもあったようですが、まったく気にせず学び続けたそうです。
また、靴下や足袋が破れても縫う糸がもったいないため、そのまま使い続けるような暮らしぶりであったことも記録に残っています。

家族のための内職

父の失職により、母とともに生活を支えるため、若き大久保は内職にも励んでいました。裁縫、帳簿の清書など、武士らしからぬ仕事もこなしながら、弟妹の学費や食事代を工面していたのです。
その責任感と実行力は、のちの政治活動にも色濃く反映されていきます。

西郷隆盛との友情と決別

大久保と西郷は若い頃から親しい間柄でしたが、政治的理念の違いから次第に溝が生まれます。西郷が民意や地方自治を重んじたのに対し、大久保は中央集権と法制度による統治を重視しました。
西南戦争では、旧友である西郷を討つ決断を下すことになり、これも彼の現実主義的な性格を象徴する出来事でした。

暗殺とその後の評価

紀尾井坂の変

明治の改革を推進する中で、大久保は士族層からの反感を強く受けていきます。徴兵制、廃刀令、華族制度の導入など、旧来の武士の特権を廃する政策を矢継ぎ早に進めた結果、不満が高まりました。
そして1878年5月14日、東京・紀尾井坂にて元士族の集団に襲撃され、暗殺されてしまいます。享年49歳でした。

質素な生活の証拠

大久保の死後、遺族に残された家計簿や生活記録を調べた人々は驚きました。高位の政治家とは思えぬほど質素な暮らしぶりが続けられており、公金に一切手を付けず、倹約第一の姿勢を貫いていたことが明らかになったのです。
その誠実さは、多くの国民に深い感銘を与えました。

まとめ

大久保利通
大久保利通は、明治維新の中心人物として有名ですが、その原点には極めて貧しい少年時代があります。不遇な環境の中でも学問と家族への責任を大切にし、努力を重ねた結果、近代日本の礎を築く存在となりました。彼の生き方は、苦労を力に変えることの大切さを私たちに教えてくれます。

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