戦国最弱なのに不死鳥!? 小田氏治の不屈すぎる逆転劇

小田氏治 戦国時代

要約

小田氏治は戦国時代の常陸国の大名で、「戦国最弱」とも称される一方、居城・小田城を9度も奪われながら8度奪い返した伝説的な粘り強さで「常陸の不死鳥」とも呼ばれています。周辺の強敵・佐竹氏や結城氏、さらには上杉謙信や北条氏と絶えず戦い、度重なる敗北にも屈せず家名を守り続けました。この記事では、そんな氏治の波乱に満ちた生涯を解説します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねえケン、小田氏治って聞いたことある?

ケン
ケン

おだ…うじはる? うーん、ぜんぜん知らないかも。戦国武将?

ミホ
ミホ

うん、戦国時代の常陸国の大名だった人なの。でも、すごくユニークな経歴の持ち主なのよ

ケン
ケン

どんなふうにユニークなの?

ミホ
ミホ

“戦国最弱の大名”なんて呼ばれたりしてるの。でも、実はめちゃくちゃしぶといの

ケン
ケン

最弱でしぶといって、どういうこと? 強いのか弱いのかどっちなの?

ミホ
ミホ

なんとね、自分の城を9回奪われて、そのうち8回奪い返してるのよ

ケン
ケン

えっ!? そんなに!? それってむしろすごくない!?

ミホ
ミホ

でしょ?だから“常陸の不死鳥”なんてあだ名もあるの

ケン
ケン

それってもう主人公キャラじゃん…アニメ化できそう

ミホ
ミホ

周りはみんな強敵でね。上杉謙信、佐竹義重、北条氏康……みんな戦国の超有名人ばっかり

ケン
ケン

うわ、それは厳しい! その中で生き残ったのがすごいわ

ミホ
ミホ

しかもね、彼を支えた家臣たちもすごく忠義深くて、何度城を失っても一緒に戦ってたの

ケン
ケン

家臣団と信頼関係がしっかりしてたんだね。主君愛されてたんだな?

ミホ
ミホ

上杉謙信に大敗したあとも、地元の人たちの協力で城を取り返してるのよ

ケン
ケン

まるで地元に根付いたヒーローじゃん……!

ミホ
ミホ

でも、最後は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったことで、領地を没収されてしまうの

ケン
ケン

ああ?、そこは時代の波にのまれた感じか…

ミホ
ミホ

けど命までは取られずに、徳川家康の子・結城秀康に仕えて穏やかな晩年を過ごしたの

ケン
ケン

なんか、ジェットコースターみたいな人生だね…

ミホ
ミホ

そうなの。戦に負け続けても何度でも立ち上がった、小田氏治の生き様って、学ぶこと多いよね

ケン
ケン

“負けても終わりじゃない”って、まさにその象徴だなあ…好きになったかも!

さらに詳しく

小田氏治

小田氏治(法雲寺蔵)

小田氏治とは

小田氏治(おだ うじはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて常陸国(現在の茨城県南部)を治めた大名であり、小田氏の第15代当主です。名門・藤原氏を祖とし、宇都宮氏の流れをくむ名族の出自を持ち、父は小田政治。将軍・足利義晴の従弟でもあり、家格は非常に高い人物でした。

彼は1548年に父の死により家督を継ぎ、以後約40年にわたって関東の激動の戦国情勢に揉まれることになります。小田氏治の名を特徴づけるのは、なんといってもその“不屈の粘り強さ”です。

なぜ「戦国最弱」と言われたのか?

小田氏治はその数多くの敗北から、「戦国最弱の大名」と揶揄されることがあります。事実、彼は幾度となく合戦に敗れ、居城・小田城を9回敵に奪われたという前代未聞の経験をしています。

しかしながら、それと同時に氏治はそのうち8回も小田城を奪い返すという異例のしぶとさを見せています。これほどの執念と回復力を持った大名は他に例がなく、皮肉を込めて「最弱」と呼ばれる一方で、“常陸の不死鳥”という称号も与えられています。

地政学的不利と強敵たち

小田氏が本拠を置いた常陸は、戦国最強クラスの大名たちに囲まれた要地でした。北には佐竹義昭・義重父子、西には結城氏、さらに上杉謙信や北条氏康といった大勢力が激しく勢力を争っていた地帯です。

小田氏治は、これらの勢力との対立や同盟を巧みに繰り返しながら、しばしば劣勢に立たされながらも生き延びていきました。時には北条氏に属し、時には上杉に降り、また佐竹と敵対し……と、その柔軟な政治姿勢も特徴の一つです。

小田城をめぐる執念の攻防

9度の落城、8度の奪還

小田氏治の象徴ともいえるのが、小田城をめぐる攻防戦です。彼の治世中、小田城は合計9回敵に奪われています。通常なら一度や二度で立ち直れず家を滅ぼすケースがほとんどですが、氏治はなんとそのうち8度も奪い返すことに成功しました。

特に有名なのは、永禄7年(1564年)に起きた山王堂の戦いで、上杉謙信の攻撃により小田城を失陥した直後のエピソードです。氏治は兵力差にも関わらず1年足らずで再び小田城を手中に収め、敵の虚を突く見事な奪還劇を演じました。

忠誠厚い家臣団

氏治の驚異的な粘り強さを支えたのは、忠誠心の高い家臣団の存在です。彼には「小田四天王」や「海老ヶ島七騎」といった精強な家臣たちがいて、戦局がどれほど不利になっても氏治を見捨てることはありませんでした。

特に菅谷政貞や赤松凝淵斉などは何度も城を奪われる中で活躍し、氏治の復権に大きく貢献しました。家臣と主君との結束力が、小田氏のしぶとさの根源だったともいえるでしょう。

最後の戦いと没落

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐を開始した際、小田氏治は参陣を拒否し、小田城奪還のため独自に挙兵しました。しかしこれは秀吉に対する反逆と見なされ、全ての領地を没収されることとなります。

その後、氏治は徳川家康の子であり、秀吉の養子でもあった結城秀康に仕えることで助命され、越前国に300石を与えられました。こうして戦国最後の波乱を生き延び、慶長6年(1601年)に68歳(または71歳)でその生涯を閉じます。

再評価される小田氏治の生涯

後世の一部では「戦国最弱」として語られることも多い氏治ですが、彼の実像はむしろ「敗北から立ち直る力に満ちた武将」でした。敵であった佐竹義昭も、氏治を「名門の出で才覚もあり、家名を保っている」と評価しています。

その生涯は、単なる勝敗ではなく、信頼と団結でいかにして家を守るかという視点から再び注目されています。

まとめ

小田氏治

小田氏治は多くの戦いに敗れながらも、驚異的な粘り強さで居城・小田城を何度も奪い返した、戦国時代でも特異な存在の大名です。最終的に大名としての地位は失いましたが、その不屈の精神と家臣との絆は、単なる「戦国最弱」では括れない魅力を今に伝えています。

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