要約
鎌倉時代の日本に襲来した元寇(文永の役・弘安の役)は、世界最強とも言われたモンゴル帝国による大規模な侵攻でした。ところが日本はこれを撃退します。勝因は神風(台風)だけではなく、日本武士の戦い方や防衛準備、元軍の戦術的な問題も絡んでいました。本記事ではその背景と勝因をわかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

ねえケン、元寇って聞いたことある?

えーと…なんか、昔モンゴルが日本に攻めてきたやつだっけ?

正解!でもモンゴルってだけじゃなくて、実は朝鮮半島の高麗も一緒だったんだよ

えっ、元だけじゃなかったの!?

そうなの。元が高麗に命じて、兵士と船を用意させたの。いわば連合軍ね

そんな連合軍に、日本はどうやって勝てたの?

よく“神風”が吹いたからって言うけど、それだけじゃなくて、日本の武士の奮戦もすごかったの

どんな戦い方だったの?

例えば、元の軍って集団で弓を撃つ戦術。でも日本の武士は一騎打ちが基本だったの

戦い方が全然違ったんだね

うん、それに、武士たちは日が暮れてから小舟で元の船に乗り込んで夜襲したの

えー!夜襲とかめっちゃ勇敢!

そうそう、それで元の兵は船に閉じ込められていて、寝不足やストレスも大きかったらしいよ

それはつらい…でも日本側はどこにいたの?

陸上にちゃんと陣を構えてたの。しかも“石築地(いしついじ)”っていう防塁も築いていたから、上陸を阻止できたの

なんか、鎌倉幕府って防衛意識高いね

前回の文永の役で痛い目にあったから、次に備えてかなり準備してたのよ

文永の役?って何回もあったの?

うん、1274年の文永の役と、1281年の弘安の役、2回あったの

じゃあ、1回目で完全に勝ったわけじゃなかったんだ

そう。1回目は防戦一方だったけど、なんとか持ちこたえたの。でも元軍は一部撤退する時に嵐に遭って大被害

それが“神風”か!

そう。でも2回目の弘安の役のときは、もっと大規模な襲来だったの

どうだったの?

東路軍と江南軍っていう2つの軍が来て、合計で14万人以上とも言われてるよ

ひゃ、14万人!? そんな大軍を日本が迎え撃てたの?

迎え撃ったというより、元軍が海上で合流できず、しかもまた台風にやられて壊滅状態に

まさかの2度目の神風…

そう。でも台風までの2ヶ月間、日本の武士たちが海上戦や夜襲で粘りに粘ってたのも大きいの

なるほど、日本の粘り強さと自然のダブルパンチか

その通り!だからこそ、神風だけが勝因ってわけじゃないのよ

なんか誤解してたなあ。日本すごいじゃん

でも勝った後も大変だったのよ。恩賞がもらえなかった武士たちが不満を募らせて…

えっ、それでどうなったの?

後に幕府の権威が揺らいで、やがて室町時代へと流れていくの

へえ?、元寇ってその後の歴史にもつながってたんだ
さらに詳しく

『蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い
元寇とは?
13世紀後半、世界最強のモンゴル帝国(元)は、東アジア一帯を支配し、日本にも服属を求めました。しかし、日本の鎌倉幕府がそれを拒否したため、2度にわたって日本への大規模な軍事遠征が行われました。
最初は1274年の文永の役、次が1281年の弘安の役です。これらを合わせて「元寇」と呼びます。元寇は単なる外国の侵略ではなく、日本の中世社会、武士階級、そして幕府体制に大きな影響を及ぼした重要な出来事です。
元軍の強さとその限界
驚異の大帝国の軍事力
元軍は、モンゴル帝国の中央アジア騎馬軍団に加え、高麗(朝鮮)兵や南宋の捕虜兵、さらに中国南部の水軍など、さまざまな人種・部隊で構成されていました。
特に文永の役では、約2万5000人が船で博多湾に上陸。騎馬や弓の集団戦術、火薬兵器(てつはう)を用いた攻撃で日本側を圧倒しました。
海戦の経験不足
一方で元軍には重大な弱点もありました。モンゴル帝国は騎馬戦には長けていたものの、海戦の経験が乏しく、船の建造や運用には不慣れでした。また、異なる言語や文化を持つ兵士同士の統率も難しく、作戦行動に乱れが生じやすかったのです。
補給と疫病の問題
特に弘安の役では、元軍の兵力が約14万人と大規模でしたが、それだけに兵糧や水の確保が困難になり、長期滞在ができず疲弊していきました。さらに密集した船内での疫病の流行も、戦力の低下を招きました。
日本の防衛準備と武士の奮闘

福岡県西区今津の元寇防塁
石築地と陸上防御の強化
文永の役後、日本は対策として博多湾沿いに長さ20kmにおよぶ「石築地(いしついじ)」という防塁を築きました。これにより、弘安の役では元軍が上陸しようとしても容易には突破できませんでした。
この防塁は、現在でも一部が残っており、日本史上初の本格的な国土防衛線と言えます。
武士たちの戦術
また、当時の日本の武士は名乗りをあげて一騎打ちする伝統的な戦い方をしていました。元軍に対してはこのスタイルが不利とされましたが、実際には夜襲や小舟による奇襲など、柔軟な戦術も駆使して戦っています。
日本の武士たちは、敵船に夜間に忍び込んで襲撃するなど、高度な局地戦術を展開し、敵の士気をくじきました。
“神風”と自然の力
弘安の役では、合流を予定していた東路軍と江南軍の足並みが揃わず、2ヶ月近くも海上での停泊を強いられた結果、兵力は疲弊していきました。
そして1281年8月、ついに台風が九州北部を直撃。元軍の船団は壊滅し、多くの兵が海に沈みました。この台風が後に「神風(しんぷう)」と呼ばれ、日本を守った神の加護と信じられるようになります。
ただし、実際には日本側の粘り強い防衛戦があったからこそ、この自然の力が最大限に発揮されたとも言えるのです。
元寇のその後と歴史的影響
元寇の勝利によって、日本は独立を守ることに成功しました。しかし、恩賞(報酬)に乏しかったため、戦った武士たちの間に不満が広がります。
これが後に幕府の統治能力の低下を招き、鎌倉幕府の衰退へとつながっていきます。さらに、対外危機への対応経験は、後の日本の軍事政策や外交観にも影響を与えました。
まとめ
元寇において日本が勝利できたのは、単なる自然災害だけではなく、事前の防衛準備、武士の戦術、そして元軍の弱点が複合的に影響した結果です。神風はその一因ではありますが、日本側の努力と判断力も大きな役割を果たしました。
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