要約
三好長慶は、織田信長が台頭するよりも早く、京都を制圧し、将軍を追放して政権を握った戦国大名です。足利義輝や細川晴元を退けて畿内の支配を実現し、「信長以前の天下人」とも呼ばれています。今回は、三好長慶の政治・軍事的手腕とその天下人としての実態について解説していきます。
ミホとケンの対話

ケン、織田信長より前に“天下人”と呼ばれた戦国武将がいるの、知ってる?

えっ、信長より前?そんな人いたっけ…誰?

三好長慶(みよし ながよし)って人。畿内を制圧して、将軍すら追い出したの

まさか…将軍って、あの室町幕府の足利将軍?

そう、13代将軍・足利義輝をだよ。しかも管領の細川晴元まで倒してるの

なにそれ…完全に“戦国版のクーデター”じゃん!?

そうそう、当時の京都は混乱の極みで、力のある者が政治を牛耳る時代だったの

それで三好長慶が京都を支配しちゃったんだ…すごっ

しかも、ちゃんと武力だけじゃなく政治力もあって、寺社や公家とも連携してたのよ

信長っぽいね。ってことは、いわゆる“先駆け”だったのか

まさにそう。『信長の先駆者』って言われることもあるぐらい

へえ?。じゃあ、どうやってのし上がったの?

元々は細川家の家臣だったけど、父が殺されたのを機に立ち上がって、政敵を次々倒していったの

父が…殺された!?

うん、1532年に一向一揆に襲われて自害。そのとき長慶はまだ10歳だったの

それで復讐のために…すごいストーリーだな

その後、若くして元服してからは軍才を発揮して、畿内の実力者になっていくの

戦もうまかったの?

うん、例えば『江口の戦い』では政敵の三好政長を討ち取って、京都を制圧したの

え、待って。敵も“三好”って名前?

あはは、ややこしいけど、政長は同族。つまり親戚みたいな存在

親戚と戦うの!? 戦国時代ってホント容赦ない…

そうね。でも長慶は意外と義理堅くて、昔の主君の子どもを育てたり、和睦も重視してたの

えっ、優しいとこもあるの?

そうなの。足利義輝を追い詰めた時も、徹底的には追撃しなかったし

へぇー…なんか信長より人情派っぽい?

うん、実は連歌とか和歌とかにも通じていて、文化人としても一流だったのよ

イケメンだったのかな!?

肖像画を見ると、戦国武将っていうより、ちょっと物静かで知的な雰囲気よ

ますます気になる…けど、なんで有名じゃないの?

信長・秀吉・家康の“戦国三英傑”の影に隠れちゃってたの。でも今、再評価されてるのよ
さらに詳しく

三好長慶
三好長慶とは?
三好長慶(みよし ながよし)は、戦国時代前期において畿内(京都・大阪・奈良周辺)を制圧し、将軍や管領家を退けて政権を握った初の戦国大名です。
彼は「信長以前の天下人」とも称される存在であり、室町幕府の実質的な崩壊と、新たな武家政権の先駆けとなる三好政権を打ち立てました。
その政治力・軍事力は織田信長に先行し、なおかつ中央集権的な支配体制を実現していた点で、近年再評価が進んでいます。
どうやって天下を握ったのか?
政敵の排除と戦略的上洛
長慶は若くして父・三好元長を一向一揆によって失いました。その後、父の仇である細川晴元や三好政長を打倒し、江口の戦いを経て京都を掌握します。
このとき、将軍・足利義晴、義輝父子や晴元らは畿外へ逃亡。京都には長慶と彼が擁立した傀儡的な細川氏綱だけが残り、実質的な「幕府なき支配体制」が成立しました。
幕府や朝廷との関係構築
三好政権は、寺社勢力や公家・朝廷ともうまく連携を図り、堺などの商業都市を支配下に置いて経済的な基盤を確立。
さらに嫡子・三好義興には足利将軍から「義」の字を賜り、中央政権の格式を持たせる演出も成功させました。
三好政権の特徴
弟たちと支えた分権的統治
三好長慶の政権は、彼自身のカリスマに加え、三好実休、安宅冬康、十河一存といった弟たちが四国・畿内を分担して支える分権型体制が特徴です。
また、松永久秀のような有力な家臣も活用し、軍事と行政を分担する柔軟な組織構造をとっていました。
文化人としての一面
長慶は単なる武断派ではなく、連歌・和歌・仏教文化にも深い関心を持つ教養人でもありました。
堺の臨済宗寺院「南宗寺」の開山を行ったり、正親町天皇の即位に際して朝廷に献金し儀礼を整えたりするなど、宗教・文化政策にも積極的でした。
なぜ失速したのか?
永禄4年(1561年)以降、弟の十河一存の急死に続き、実休の戦死、嫡男・義興の早世などが相次ぎ、精神的に追い詰められた長慶は徐々に政務を離れます。
さらに、松永久秀の讒言によって最も信頼していた弟・冬康を誅殺するなど、政権内部は混乱。
1564年、病を患って43歳で早世。後継者が若年だったこともあり、三好政権はやがて崩壊へと向かいました。
織田信長との比較
織田信長は、1568年に足利義昭を擁して上洛し、畿内支配を開始します。これに対し三好長慶は、信長より10年以上早く京都を掌握しており、“天下人”という概念を先取りしていたといえるでしょう。
ただし、長慶は旧秩序(将軍や細川家)を完全には否定せず、共存しようとする姿勢もありました。これが徹底した破壊と構築を行った信長との違いでもあります。
現在の評価
かつては“影の薄い戦国大名”とされていた三好長慶ですが、近年では「織田信長の先駆者」としての再評価が進んでいます。
戦乱の世において、宗教・文化・経済・軍事のバランスを取りつつ、将軍を退けて中央政権を握った三好長慶は、日本史上で初めて「武力による天下統一」に最も近づいた人物といえるのです。
まとめ
三好長慶は、信長よりも早く将軍を追放し、畿内を支配した戦国大名です。中央集権的な政権を築き、文化・経済・軍事面でバランスの取れた統治を行いました。病や身内の死がなければ、信長に先駆けて全国統一を成し遂げていた可能性もあります。現代では再評価が進み、戦国時代の先駆者として注目されています。
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