要約
「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、実在の人物であり、水戸藩の第2代藩主でした。テレビドラマの印象から「お忍び旅をするおじいちゃん」のイメージが強いものの、実際には学問を重視し、『大日本史』の編纂を主導するなど知識人としても知られていました。彼の人生とその功績、そして「水戸黄門」伝説の真実について詳しくご紹介します。
ミホとケンの対話

ケン、水戸黄門って知ってるよね?

うん!あの旅しながら悪者を成敗するおじいちゃんでしょ?

うん、それテレビドラマの『水戸黄門』の話だね。でも本物の水戸黄門はちょっと違うんだよ

えっ、違うの!? 本当に旅してないの?

ほとんど旅はしてないって言われてるの。徳川光圀って名前で、水戸藩の2代目藩主だったの

お殿様なのに、黄門ってどういうこと?

“黄門”は位の名前で、彼は中納言という役職に任じられたの。それで“水戸中納言”→“水戸黄門”って呼ばれるようになったのよ

なるほど〜、名前がカッコよくてあだ名になったのか

それにね、光圀はすごく学問好きで、『大日本史』っていう歴史書の編纂を始めた人なの

歴史書!? そんなイメージないよー。もっと旅して印籠出してる人かと…

それは完全に創作。でもね、民の生活を大事にしたり、改革をしたりして、とても優れた政治家でもあったの

へぇ〜、じゃあ印籠は持ってなかったのか…?

あれも創作。でも“水戸家の印”は実際にあったし、光圀の名は幕府内でも尊敬されていたから、影響力はあったよ

じゃあ、なんで旅物語になっちゃったの?

江戸時代の庶民の間で、正義の象徴として水戸黄門が理想化されたの。その後、講談や芝居になって、テレビドラマにもなったのよ

え〜!人気キャラになったんだね!

うん、“正義のお殿様”って設定が庶民の心をつかんだの。昭和の時代にも人気だったのよ

なんか歴史の中のアイドルって感じだね

その通り!実際の徳川光圀も魅力的な人物だったし、イメージの中でも人々に親しまれてきたの

よーし、今度から水戸黄門を“ガチ学者の殿様”として見るようにする!
さらに詳しく

徳川光圀像(狩野常信画、徳川ミュージアム蔵)
徳川光圀とは?
徳川光圀(1628〜1701)は、江戸時代前期の水戸藩第2代藩主であり、徳川家康の孫にあたります。諡号(しごう)は「義公(ぎこう)」といい、後世には「水戸黄門」としても広く知られています。
若い頃の光圀は、豪快で奔放な性格だったとされますが、次第に学問に目覚め、特に儒学や歴史に傾倒していきました。治世においては、教育の普及や歴史研究を重視し、文治政治を推進した名君として評価されています。
“水戸黄門”という呼び名の由来
「黄門」とは、中国の官職名「黄門侍郎」に由来するもので、日本では中納言の唐名(漢風の呼び名)として用いられていました。徳川光圀は中納言に任ぜられたことから、「水戸黄門」と呼ばれるようになります。
この呼称が広く庶民に浸透し、やがて「水戸黄門」は単なる官職名を超えて、「正義と知恵をもって悪を懲らしめる理想のご隠居様」として定着していきます。
『大日本史』の編纂と水戸学
光圀の最大の功績の一つが、『大日本史』の編纂に着手したことです。これは、天皇を中心とした日本史を編むという壮大な国家観に基づいた歴史事業で、幕末の尊王攘夷思想や明治維新にも思想的影響を与えたとされます。
この編纂事業は水戸藩士によって脈々と受け継がれ、なんと完成までに約250年を要しました。この流れは「水戸学」として発展し、後の日本の思想界にも深い影響を与えました。
テレビドラマと実際の“黄門さま”
多くの人が知る「水戸黄門」は、全国を旅して悪を懲らしめるヒーローとして描かれています。しかし、実際の徳川光圀がそのような旅をしたという記録は、ほとんど残っていません。
とはいえ、領地内の巡察や改革には力を注ぎ、清廉な政治を行ったことは確かであり、その実像が理想化されて物語化されたのが、後の「黄門さま」のイメージとなったと考えられます。
なぜ庶民に人気だったのか?
江戸時代の庶民は、政治に直接関与することができず、武士や為政者に対して距離感を持っていました。そんな中で、「弱きを助け、強きをくじく」黄門さまの物語は、庶民の夢や希望の象徴となりました。
講談や芝居、小説などで活躍する黄門さまの姿は、現実には届かない理想の正義として、広く親しまれるようになったのです。
まとめ
水戸黄門として親しまれる徳川光圀は、実際には学問と政治に力を尽くした水戸藩主でした。彼の行動や思想は後の日本に大きな影響を与え、庶民の間では「正義の象徴」として語り継がれてきました。フィクションと史実の両方を知ることで、より深く歴史を楽しむことができますね。
コメント