要約
伊達政宗は「独眼竜」の異名で知られる戦国武将ですが、なぜ片目だったのか、その理由には天然痘という病気が深く関わっています。この記事では、政宗が幼少期に患った天然痘と、それが彼の人生や武将としての生き方にどのような影響を与えたのかを詳しく解説します。また、当時の医療事情や天然痘の恐ろしさにも触れながら、政宗の強さの裏に隠された苦悩と覚悟を読み解きます。
ミホとケンの対話

ケン、伊達政宗って知ってる?

うん!独眼竜って呼ばれてた人でしょ?めっちゃカッコいい名前!

そうそう。でも、なんで“独眼”になったか知ってる?

え、ケンカして負けたとか…?

ちがうの。実は政宗は、幼いころに“天然痘”にかかってしまったのよ

えっ、天然痘って…なにそれ?

天然痘は、昔すごく恐れられてた感染症で、高熱と全身に発疹が出て、命を落とすことも多かったの

うわあ…怖っ!政宗は助かったの?

命は助かったけど、右目が潰れてしまって、見えなくなったの

「それで“独眼竜”なんだ…!なるほど~

ちなみに、政宗自身がその目を気にして、自ら右目をえぐったっていう説もあるのよ

え、自分で!? それ、めちゃくちゃ勇気いるじゃん!

諸説あるけど、見た目を気にして味方の士気が下がるのを避けたっていう話もあるわ

戦国時代の武将って、見た目も気にしないといけなかったんだね

うん。“武士たるもの、見た目も堂々としてなきゃ”って価値観があったの

政宗って、なんか不器用だけどカッコいい人って感じするね

そうなのよ。しかもそのハンデを跳ね返して、大名として成功したのがすごいの

そう考えると、病気に負けなかったヒーローって感じだね!

まさに“病に打ち勝った戦国の虎”って感じよね

政宗の右目、なんか伝説の証って気がしてきたよ!

実際、彼の強さや個性はそこから始まったのかもしれないわね
さらに詳しく

伊達政宗像(東福寺霊源院蔵)
伊達政宗とは?
伊達政宗(だてまさむね、1567年~1636年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した東北の大名です。「独眼竜」の異名で広く知られ、現在の宮城県仙台市を中心とした地域にその基盤を築きました。わずか17歳で家督を相続した政宗は、若くして大胆かつ冷静な判断力を発揮し、多くの戦を勝ち抜いていきました。
特筆すべきは、海外との交流にも積極的であった点です。慶長遣欧使節団を組織し、家臣・支倉常長をヨーロッパへ派遣するなど、視野の広さも持ち合わせていました。これは当時の大名としては極めて異例であり、政宗の先進性を物語っています。
天然痘とは?
天然痘(てんねんとう)とは、古代から人類を苦しめ続けた感染症で、高熱、発疹、膿疱(のうほう)を特徴とし、死亡率も非常に高い病気でした。ウイルスによって引き起こされ、特に小児の死亡例が多く、社会的にも大きな影響を与えていました。
天然痘は顔や体中に痘瘡(あばた)を残すため、外見的な後遺症にも悩まされることが多く、戦国時代のように外見や威厳が重視された社会では、致命的な影響を及ぼすこともありました。
世界保健機関(WHO)の尽力により、1980年に天然痘は地球上から完全に根絶されましたが、それ以前の時代では“死神の病”とまで恐れられていたのです。
政宗と天然痘:片目を失った理由
天然痘の後遺症
政宗は幼少期にこの天然痘を患い、その後遺症として右目を失明しました。このことが後に「独眼竜」というあだ名の由来となります。天然痘による視力の喪失は稀ではありませんでしたが、戦国武将という立場にとっては大きなハンデでした。
自ら目をえぐったという逸話
政宗にまつわる有名な逸話のひとつに、「自ら潰れた右目をえぐり取った」という話があります。これは、味方の士気を下げないため、または敵に弱みを見せないためだったとも言われています。実際にそうした行動を取ったかどうかは不明ですが、それほどまでに自分の外見と武将としての威厳にこだわりを持っていたのは事実です。
ハンデを跳ね返したリーダーシップ
一目で“異形”とわかる見た目にも関わらず、政宗は堂々と前線に立ち続けました。その姿勢が家臣たちの信頼を得る大きな要因となり、後に仙台藩62万石の基礎を築くことになります。
彼は軍略だけでなく、城下町の整備や文化の振興、さらに異国との交流など、多彩な分野でリーダーシップを発揮しました。天然痘での苦難を経験したことが、政宗の精神的な強さと多角的な視野を育んだとも言えるでしょう。
まとめ
伊達政宗が「独眼竜」と呼ばれるようになった背景には、幼少期にかかった天然痘の後遺症がありました。右目を失うというハンデを負いながらも、それを乗り越えて大名として大きな功績を残した政宗の生き様は、多くの人に勇気を与えてくれます。病を経て強くなった政宗の姿は、今なお語り継がれています。
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