まさかの“くじ引き”で将軍に!? 足利義教に隠された衝撃の選出劇

室町時代

要約

足利義教(あしかが よしのり)は、室町幕府第6代将軍として知られていますが、その選ばれ方は極めて異例でした。将軍の座をめぐる争いを避けるため、後小松天皇が「くじ引き」によって義教を選出。この一見奇抜な方法から誕生した将軍は、後に強権的な政治を展開し「万人恐怖」と恐れられる存在に。義教の治世やその背景を、対話を交えながらわかりやすくひも解きます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、“くじ引きで選ばれた将軍”って聞いたことある?

ケン
ケン

えっ、将軍ってそんなノリで決めるの!? 学級委員じゃないんだから!

ミホ
ミホ

ふふ、そう思うよね。でも室町時代、本当にくじ引きで選ばれた将軍がいたの

ケン
ケン

マジで!? だれだれ? 有名な人?

ミホ
ミホ

足利義教っていう6代将軍。もともと出家してて、お坊さんだったのよ

ケン
ケン

え、将軍がお坊さん!? それまた意外だなぁ

ミホ
ミホ

うん、でも父親は3代将軍の足利義満。将軍家の血筋には違いなかったの

ケン
ケン

じゃあなんでくじ引きなの? 普通に家族の中から決めればよくない?

ミホ
ミホ

実はね、当時は5代将軍が急死して後継争いが起きそうだったの。だから天皇が公平に“くじ”で決めようとしたのよ

ケン
ケン

えっ、それって天皇のアイデアなの!?

ミホ
ミホ

そう、後小松天皇が神仏の意志に任せようってことで、“籤引き”を実施。これを『籤引き将軍』って呼ぶの

ケン
ケン

うわ~運命だねぇ…。てことは義教が当たりくじ引いたってこと?

ミホ
ミホ

うん、だけど当時すでに義教は天龍寺の高僧で、まさか自分が将軍になるなんて思ってなかったのよ

ケン
ケン

そこから将軍に!? 人生どんでん返しじゃん

ミホ
ミホ

それからは僧籍を捨てて、バリバリの実権型将軍として君臨するの

ケン
ケン

お坊さんからの変身…かっこいい?

ミホ
ミホ

でもね、義教はちょっと怖い将軍だったの。“万人恐怖”って呼ばれたほどよ

ケン
ケン

なんかジョジョっぽいあだ名だね…。なにしたの?

ミホ
ミホ

有力大名たちを押さえつけて、反抗的な者は容赦なく粛清したの。代表例が“永享の乱”ね

ケン
ケン

永享の乱? なにそれ?

ミホ
ミホ

関東で力を持ってた鎌倉公方・足利持氏を討伐した事件よ。身内にも容赦なかったの

ケン
ケン

こわっ! くじ引きで選ばれたのに、やることめっちゃ強権…

ミホ
ミホ

その反動で恨みも買って、最後は暗殺されてしまうの

ケン
ケン

えぇっ!? そんな結末!?

ミホ
ミホ

そう、嘉吉元年(1441年)、播磨の赤松満祐に襲撃されて亡くなったのよ。『嘉吉の乱』って言うの

ケン
ケン

将軍なのに、そんなふうに殺されちゃうんだ…

ミホ
ミホ

うん。義教の死は室町幕府の権威を大きく揺るがしたの。だからこの“くじ引き将軍”の話は、ただの珍事じゃなくて、政治の転換点でもあるのよ

ケン
ケン

いや~なんか、くじ引きって笑えないやつだね…

さらに詳しく

足利義教

足利義教(重要文化財、妙興寺蔵)

足利義教とは?

足利義教(あしかが よしのり)は、室町幕府第6代将軍で、1394年に3代将軍・足利義満の子として生まれました。
当初は将軍職から離れた存在であり、仏門に入って「義円(ぎえん)」と号し、天龍寺で高僧としての道を歩んでいました。
彼が将軍に選ばれることは、当時の誰にとっても予想外の出来事でした。

くじ引きによる将軍選出の背景

将軍家の危機

5代将軍・足利義量が若くして亡くなったことで、将軍後継者の選定が混迷を極めました。
将軍家には有力な後継候補が複数いたものの、どの一派を支持しても対立の火種となる恐れがありました。

後小松天皇の決断

この混乱を避けるために登場したのが、「くじ引き(籤引き)」という異例の方法です。
当時の天皇・後小松天皇は、「神仏の意志に従う」形での選出を決断しました。
くじは寺院で行われ、義円(のちの義教)の名前が引き当てられたことで、出家していた彼が突然将軍になるという驚きの展開を迎えます。

義教の強権政治と「万人恐怖」

僧から武家の頂点へ

還俗(げんぞく)して足利義教と名乗った彼は、僧侶出身とは思えないほど強権的な政治を展開します。
中央集権化を進め、各地の守護や有力大名に対して強い統制を行い、反抗的な勢力は徹底的に粛清しました。

恐れられる将軍

義教の専制的な手法は多くの武士に恐れられ、「万人恐怖」という異名で呼ばれることとなります。
これは「万人(すべての人々)が義教の怒りを恐れた」ことに由来し、彼の政治スタイルを象徴しています。

永享の乱

1438年には、関東を支配していた将軍一族の一人・鎌倉公方 足利持氏との対立が深まり、「永享の乱」が勃発します。
義教は幕府軍を派遣し、鎌倉を包囲。最終的に持氏は自害し、義教の強権が証明されました。
この事件は、将軍が親族に対しても容赦なく支配を貫いた例として知られます。

嘉吉の乱と義教の最期

義教の恐怖政治は多くの恨みを買い、ついに1441年、播磨国(現在の兵庫県)守護の赤松満祐によって暗殺されます。
これが「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼ばれる事件です。

義教は宴席に招かれた際、突如赤松氏の家臣に襲撃され、将軍としては史上初の暗殺による死を遂げました。
この事件は幕府の威信を著しく傷つけ、以後の室町幕府は将軍の権威が低下し、守護大名たちの勢力が増大するきっかけとなります。

くじ引き将軍の意味

足利義教の将軍選出は、宗教的な権威政治的実権が複雑に交差した時代背景を象徴しています。
くじ引きで選ばれたとはいえ、その後の政治手腕や影響力は絶大であり、彼の治世は室町時代のターニングポイントとなりました。

また、義教の政治は後の戦国時代につながる大名分権体制の布石ともなり、中世日本の転換点の一つとして注目されます。

まとめ

足利義教

足利義教は、室町幕府の中でも異色の将軍です。くじ引きによって選ばれたその経緯は、中世の信仰や権力構造を色濃く反映しています。強権的な政治で幕府の中央集権を進めた義教でしたが、恨みを買い暗殺されるという非業の最期を遂げました。義教の治世は、室町幕府の転換期として非常に重要です。

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