要約
幕末の動乱期、強い攘夷思想で知られた孝明天皇が天然痘で急死しましたが、その死には「毒殺されたのではないか」という説が存在します。天皇の死は明治維新を後押ししたとも言われ、彼の存在を疎ましく思った勢力による暗殺の可能性も否定できません。この記事では、その死因に関する謎を掘り下げます。
ミホとケンの対話

ケン、孝明天皇って聞いたことある?

名前だけは…天皇だよね?でも何した人?

幕末の頃に在位していた天皇で、ものすごく攘夷思想が強かったの

攘夷って、外国を追い払え!ってやつ?

そうそう。開国して欧米と仲良くしようって動きに反対してたの

ってことは、幕府とも敵対してたのかな?

完全に敵ってわけじゃなくて、天皇としては幕府ともうまくやっていきたいって気持ちもあったのよ。でも、開国政策にはすごく反発してたの

なるほど…幕府のやり方には不満だったけど、倒したいってわけじゃなかったんだね

そうなの。だからこそ、当時の倒幕派にとっては“やっかいな存在”だったとも言われてるの

えっ…なんか不穏な空気

実はね、1867年、孝明天皇は突然亡くなったの

えっ!? 病気だったの!?

表向きは“天然痘”っていう当時の感染症が原因とされてるわ

天然痘…聞いたことある!顔にあばたが残るやつだよね?

そう、それ。だけどその死には“毒殺説”があるのよ

ど、毒殺!? 誰がそんなことを…

いろんな説があるけど、倒幕を急ぎたい薩摩や長州など尊王攘夷派、あるいは新政府樹立を目指した勢力が怪しまれてるの

つまり、孝明天皇が生きてたら明治維新の流れが変わってたってこと?

可能性はあるわね。彼は徳川家にある程度理解を示していて、倒幕には慎重だったから

でも証拠はないんでしょ?

そう。表向きは天然痘死。でも遺体の腐敗が早かったとか、遺体をすぐ火葬したとか、怪しい点が多いの

それって口封じのためだったのかな…

かもしれない。しかも直後に即位したのが、あの明治天皇

え、つまり明治維新に向けて天皇を入れ替えた!?

陰謀論っぽくなるけど、実際に孝明天皇の死で勢力図が一気に変わったのは事実よ

歴史って…ミステリーだね
さらに詳しく

孝明天皇(小山正太郎筆。1902年)
孝明天皇とは?
孝明天皇(こうめいてんのう、1831年~1867年)は、幕末の動乱期に即位した第121代天皇です。即位期間は1846年から1867年にわたります。父は仁孝天皇、子がのちの明治天皇であり、明治維新直前の朝廷の象徴的存在でした。
彼は強硬な攘夷思想の持ち主で、欧米列強との通商条約や港の開港に対して明確な拒絶の姿勢を示していました。特に「日米修好通商条約」が天皇の許可(勅許)を得ずに結ばれた際には、深い憤りを示し、幕府に対して抗議の意を表しています。
突然の死と「毒殺説」
孝明天皇は1867年1月30日、天然痘により35歳という若さで急死しました。しかし、この死には当時から疑念がつきまとっていました。
天然痘説の背景
天然痘は19世紀には非常に致死性の高い病気で、当時の日本でも流行していました。確かにその症状は急激に悪化することがあり、致命的な結果になることも多かったのです。
毒殺説の根拠
しかし、孝明天皇の死に関しては以下のような不審な点が挙げられています:
- 発病から死までがわずか数日と異常に早い
- 遺体の腐敗が極端に早く進んだと記録されている
- 死後すぐに火葬され、詳細な検死や記録が残されなかった
- 同時期に朝廷内で他にも急死した人物が複数いた
これらの状況証拠から、「暗殺されたのではないか」という疑念が広がったのです。
疑われた勢力とその動機
孝明天皇の死に関して特に怪しまれているのが、倒幕派の薩摩藩・長州藩など尊王攘夷を掲げる勢力です。というのも、孝明天皇は倒幕には否定的で、徳川政権と一定の協調姿勢を見せていたため、彼の存在は維新を急ぎたい勢力にとって障害だったのです。
さらに孝明天皇の後継として即位したのが、わずか15歳の明治天皇。若年で政治に影響を及ぼしにくかったこともあり、新政府にとって都合の良い構図となりました。
本当に毒殺だったのか?
毒殺説は魅力的な歴史ミステリーとして語られ続けていますが、決定的な証拠は存在しません。当時の医療技術や記録の不備、風聞の多さから、あくまで「状況証拠に基づく推測」の域を出ないとされています。
また、近年の研究では、天然痘による急死も充分にあり得たという見解も多く、毒殺説を裏付ける医学的・物理的な証拠は見つかっていないのが実情です。
それでも残る歴史の影
とはいえ、孝明天皇の死によって明治維新の流れが一気に加速したのは事実です。彼がもし生きていたなら、倒幕のタイミングも変わっていたかもしれません。そのため、毒殺説は今なお「ありえた歴史の分岐点」として語られ続けているのです。
まとめ
孝明天皇は幕末における重要な政治的存在であり、強い攘夷思想を持ちながらも倒幕には慎重な姿勢を取っていました。彼の突然の死には毒殺説がつきまとい、幕末の権力構造を一変させた要因の一つとされています。史実と伝承が交錯する謎多き死は、現代においても歴史ミステリーとして語り継がれています。
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