加藤清正ブチギレ!石田三成をなぜそこまで・・ガチ憎悪の真相とは

幕末

要約

加藤清正と石田三成は、豊臣政権下でともに仕えた有力な武将でありながら、深刻な対立関係にありました。その背景には、武力を重視する「武断派」の清正と、文治主義を掲げる「文治派」の三成との政治的・性格的な不一致があります。特に朝鮮出兵の際の対応や、戦後処理の意見対立が関係を決定的に悪化させました。本記事では、そんな二人の確執の背景や関ヶ原の戦いへの影響を詳しく掘り下げていきます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、加藤清正って知ってる?

ケン
ケン

あー、なんか熊本城の人だっけ?

ミホ
ミホ

そうそう!実はね、その清正が石田三成のことをめちゃくちゃ嫌ってたって知ってた?

ケン
ケン

えっ、仲間じゃなかったの!? 豊臣家の家臣同士でしょ?

ミホ
ミホ

そこが戦国時代の面白いところ。同じ主君に仕えてても、派閥が違うと対立するんだよ

ケン
ケン

えーっと、派閥って?

ミホ
ミホ

清正は“武断派”、つまり戦で名を上げた武将たち。三成は“文治派”、政務や行政を重んじるタイプだったの

ケン
ケン

ふむふむ。で、なんでそんなに仲悪くなっちゃったの?

ミホ
ミホ

決定的だったのは、朝鮮出兵の時ね。清正は最前線で戦ってたのに、三成は兵糧や補給の管理で後方から口出ししてきて、現場の武将たちからめっちゃ嫌われたの

ケン
ケン

おお…それはちょっとウザがられそう

ミホ
ミホ

しかも清正たちの戦果を報告しないようにしたり、逆に失敗ばっかり強調してたって言われてるの

ケン
ケン

それは確かに…性格悪いかも…

ミホ
ミホ

それで、清正だけじゃなくて、福島正則や黒田長政とかも三成に怒り心頭!“七将”って呼ばれるグループを作って、三成の襲撃計画まで立てたんだから

ケン
ケン

ええっ!内ゲバ!?

ミホ
ミホ

そう。でもその時は徳川家康が止めたんだよね。“今はまだ早い”って

ケン
ケン

まさかそれが関ヶ原につながってくの!?

ミホ
ミホ

そうなの。三成はそれが原因で政権内で孤立して、家康と組んだ武断派に対抗するために西軍を立ち上げたの

ケン
ケン

じゃあ、加藤清正は当然、家康側=東軍についたってこと?

ミホ
ミホ

そう。ただ、清正自身は関ヶ原の本戦には参加してないの。九州で抑えに回ってたのよ

ケン
ケン

へえー、でも気持ち的には“三成ぶっ倒せ!”って感じだったんだね

ミホ
ミホ

そういうこと。結果的に三成は関ヶ原で敗れて処刑されて、清正たちの勝利になったんだよ

さらに詳しく

加藤清正

加藤清正(原本京都府勧持院所蔵の複製画)

加藤清正と石田三成の対立とは

加藤清正と石田三成の関係は、豊臣政権内の政治構造における「武断派」と「文治派」という派閥対立の縮図とも言えるものでした。

清正は織田信長に仕えたのち、豊臣秀吉の家臣となり、賤ヶ岳の戦いなどで武功を重ね、七本槍の一人として名を馳せた実力派の武将です。

一方の石田三成は、戦場での経験は乏しいものの、秀吉の信任厚い官僚型の人物で、行政能力や調整力に長けていました。秀吉が亡くなった後、両者の対立は政権内の主導権争いとして顕在化します。

朝鮮出兵で生じた深い亀裂

文禄・慶長の役(1592年〜1598年)では、加藤清正は第一軍の大将として朝鮮半島に上陸し、目覚ましい軍功をあげました。特に平壌城攻略や満州との国境地帯にまで達する進撃は、清正の戦闘能力と現場での統率力を示しています。

しかしその一方で、三成は秀吉の命により兵糧・物資の補給を司る役職に就き、戦場に対して細かく命令や指示を出しました。この指示が実情に合わないものであったため、前線の武将たちには非常に評判が悪く、特に清正は三成の命令に従わず独断で行動することもしばしばありました。

さらに、三成が朝鮮での軍報告において、清正らの戦果を過小に記し、失敗や無謀さを強調していたことが清正たちの怒りを買ったとされています。これにより、現場の武断派武将たちは三成への不信感を募らせ、戦後の処理においても協調が図れなくなっていきました。

七将襲撃事件と徳川家康の登場

徳川家康

徳川家康(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

こうした不満が爆発したのが、慶長4年(1599年)の「七将襲撃未遂事件」です。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀家政、池田輝政の七人は、三成の専横を糾弾し、伏見城にいた彼を襲撃しようと動き出します。

これに驚いた三成は自ら奉行職を辞し、近江の佐和山城に退いて政界から一時的に姿を消しました。この事件は、武断派と文治派の対立がもはや調整不能な段階に達していたことを象徴しており、両者の溝は決定的となります。

この時に事態の収拾に動いたのが徳川家康です。家康は三成の失脚を容認しつつも、表向きは中立を装うことで政権内での影響力を着実に拡大していきます。この段階で、清正をはじめとする武断派の多くは家康に接近していきました。

関ヶ原の戦いとその後

関ヶ原の戦い(1600年)において、加藤清正は東軍方として参加していたものの、本戦には直接加わっていません。九州の小西行長など西軍の勢力を牽制・討伐する任務に従事していました。これは、家康が清正の力量を信頼していた証でもあり、戦後には清正の旧領である熊本(肥後)を安堵されています。

一方で、三成は西軍の中心人物として大谷吉継、宇喜多秀家らとともに戦うも敗北し、捕らえられたのち六条河原で斬首されます。これは清正らにとって長年の確執の“決着”とも言える結末でした。

武断派の勝利と清正の晩年

関ヶ原後、加藤清正は豊臣家への忠誠を示しつつも、徳川家とも巧みに関係を築きました。彼の功績により熊本藩は豊かな石高を持つ大名領となり、清正は名実ともに大大名となります。

ただし、晩年には家康との関係も微妙となり、徳川方からは警戒される存在ともなっていました。清正は1611年に京都で病没しますが、その死には毒殺説なども存在し、未だ謎が多い部分があります。

まとめ

加藤清正

加藤清正と石田三成の対立は、単なる個人間のいざこざではなく、戦国末期における武断派と文治派という政治的対立を象徴するものでした。朝鮮出兵の現場対応や、その後の権力争いの中で、両者の立場はますます明確になり、ついには関ヶ原の戦いへと至ります。個々の武将の人間関係が、日本の歴史を大きく動かした一例と言えるでしょう。

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