要約
戦国時代末期、本願寺を率いた顕如とその子・教如との間で激しい親子対立が起こりました。織田信長との戦いにおいて、教如は徹底抗戦を主張したのに対し、顕如は和睦を選びました。この考え方の違いが後に本願寺の分裂へとつながり、東本願寺・西本願寺が誕生します。この記事では、顕如と教如の対立の背景や、その後の仏教界への影響を、わかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

ねえケンくん、本願寺顕如と教如って聞いたことある?

えっ、お坊さんの名前っぽいけど…親子なの?

そうだよ、しかも親子なのにけっこう激しく対立しちゃったんだよね

え、親子喧嘩ってレベルじゃないってこと?

うん、最終的には本願寺が二つに分かれるくらい深刻だったの

えー!そんなに!? なんでそこまでこじれたの?

もともとは織田信長との戦争のときに意見が食い違ったのがきっかけかな

信長ってことは、石山本願寺の戦い?

そうそう!顕如は和睦を選んだんだけど、教如は徹底抗戦派だったの

えっ、じゃあお父さんが降伏して、息子が『ふざけるな!』ってなったの?

まさにそんな感じ。しかも教如はその後、家康にも接近するんだよ

え?今度は徳川?方向転換すごすぎない?

家康は教如を支持して、彼に新しい寺を建てさせたの。それが東本願寺!

ってことは…お父さんの本願寺は西の方?

その通り。顕如の後を継いだのは別の息子・准如で、こっちが西本願寺なの

なるほど~!じゃあ本願寺が分かれた理由って、親子喧嘩だったんだ…

単なる喧嘩じゃなくて、宗教と政治が絡んだ深い問題だったんだけどね

教如はすごく頑固だったのかな?

信念が強かったんだと思う。でも、その信念が家康に評価されたのは皮肉かもね

うーん、歴史ってほんと親子でも一筋縄じゃいかないんだなぁ

この出来事は、戦国時代の宗教と権力の関係を考えるうえで、とっても重要なんだよ
さらに詳しく
顕如と教如とは?

顕如
顕如(けんにょ)は、浄土真宗本願寺派の第11代門主で、戦国時代の動乱の中で本願寺教団を率いた宗教指導者です。彼の活動時期は織田信長との激しい抗争の時代と重なり、宗教と政治が複雑に絡み合う時代に生きました。
その長男である教如(きょうにょ)は、父の補佐として活動しながらも、特に熱心な信徒たちから強い支持を受けていました。教如は、理想や信念に忠実で、時に父・顕如よりも強硬な姿勢を取ったことで知られます。
石山戦争と親子の亀裂

教如
石山戦争(1570〜1580)は、顕如率いる本願寺と織田信長の間で行われた大規模な戦いです。本願寺側は全国の門徒を動員し、宗教的結束力によって信長に対抗しました。
しかし、信長の勢力拡大と兵糧攻めによって本願寺は次第に追い詰められ、最終的に顕如は和睦を決意し、石山本願寺を明け渡します。
この判断に教如は強く反発。徹底抗戦を主張し、自ら兵を挙げようとするほどの姿勢を見せた結果、顕如によって寺から追放される事態となりました。
教如と徳川家康の接近
石山戦争後、教如はしばらくの間、宗教的活動を抑えられていましたが、やがて徳川家康と接触します。家康は、教如の統率力や信念の強さに注目し、自らの支配体制に取り込もうと画策しました。
1602年、家康は教如に新たな寺院建立の許可を出し、京都に「東本願寺」が誕生します。これは政治的にも宗教的にも非常に大きな意味を持つ出来事でした。
家康の宗教政策と教如の役割
家康は本願寺の勢力分散を狙っており、教如を支持することで顕如の後継である准如の本願寺(西本願寺)とのバランスを取ろうとしました。これは戦国を経て成立した江戸幕府の宗教統制策の一環でもありました。
東西本願寺への分裂
顕如の死後、正式に門主を継いだのは長男の教如……ではなく、三男の准如でした。これは顕如が遺言で指名したとされており、教如にとっては大きな屈辱でした。
その後、家康の支援を受けた教如は独自の寺院を持ち、正式に分裂。こうして、本願寺は「西本願寺(准如)」と「東本願寺(教如)」という二大勢力に分かれたのです。
宗教と政治のはざまで生まれた分裂
この親子対立の背景には、単なる性格の違いや方針の違いだけでなく、宗教的信念と時代背景、そして政治権力の介入がありました。
顕如は信徒の命を守るために和睦を選び、教如は信仰の純粋さを守るために戦いを選びました。
結果として、その選択の違いが組織の分裂につながり、以後400年以上にわたる東西本願寺の分立が始まることになります。
まとめ
顕如と教如の親子対立は、宗教的信念と政治的判断の違いから生じたものであり、戦国時代から江戸初期にかけての仏教界に大きな影響を与えました。この対立は、最終的に本願寺の東西分裂という形で現れ、現在まで続く宗派の分立の始まりとなりました。
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