岩倉使節団が見た“近代化の衝撃”!世界一周で日本の未来が決まった?

岩倉使節団 日本の近代

要約

明治政府が派遣した岩倉使節団は、近代化を目指す日本の未来を背負って世界一周の旅に出ました。アメリカやヨーロッパ諸国を訪れた使節団は、各国の政治制度や産業、教育などを学び、明治日本の礎を築く知見を得ました。本記事では、岩倉使節団の目的、訪問先、影響、そして彼らが目にした“近代化の衝撃”を、会話形式でわかりやすく紹介します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、“岩倉使節団”って知ってる?

ケン
ケン

うーん…岩倉?お菓子の名前?

ミホ
ミホ

違う違う(笑)。明治時代に日本が世界を見に行った外交団のことだよ

ケン
ケン

へぇ〜!外交団って何しに行ったの?

ミホ
ミホ

一番の目的は“条約改正”と“近代化のお勉強”だったの

ケン
ケン

条約って、国同士の約束のこと?

ミホ
ミホ

そう!日本は江戸時代の終わりに不平等条約を結んじゃってたから、それをなんとかしたかったのよ

ケン
ケン

なるほど!でも、いきなり世界に行っちゃうってすごいね

ミホ
ミホ

そうなの。しかも1871年に出発して、アメリカから始まってヨーロッパ諸国をぐるっと回ったの

ケン
ケン

えっ、明治の人たちが世界一周!? 飛行機ないよね?

ミホ
ミホ

もちろん船と汽車!1年10か月もかけて回ったのよ

ケン
ケン

うわー!修学旅行どころじゃない…

ミホ
ミホ

しかも使節団のメンバーがまたすごいのよ。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文もいたの

ケン
ケン

日本の歴史の教科書で見た名前ばっかり!

ミホ
ミホ

でしょ?それに彼らは各国の制度を細かく調査して、帰国後の改革に活かしたの

ケン
ケン

どんなことを学んだの?

ミホ
ミホ

例えばアメリカでは教育制度、イギリスでは議会制度、ドイツでは軍事や行政組織なんかを見てきたわ

ケン
ケン

ってことは、日本の学校とか政治って、その影響を受けてるってこと?

ミホ
ミホ

そうなの。帰国後の明治政府の改革には、使節団の経験が反映されてるの

ケン
ケン

すごい…世界を見て帰ってきて、日本をアップデートしたんだね!

ミホ
ミホ

うん!でも残念ながら、条約改正はその場ではうまくいかなかったの

ケン
ケン

えっ、じゃあ失敗?

ミホ
ミホ

いえいえ。現地で改正の困難さを理解したことが、後の外交戦略に繋がったのよ

ケン
ケン

なるほど〜。結果的には大きな意味があったんだね!

ミホ
ミホ

その通り!岩倉使節団の旅は、近代国家としての日本の第一歩だったの

さらに詳しく

岩倉使節団

1872年、明治4年12月、サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。

岩倉使節団とは?

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治政府が近代国家建設を目指して1871年(明治4年)に派遣した大型の外交・視察団です。正式名称は「特命全権大使米欧回覧使節団」といい、日本政府の要人を中心に総勢100名を超える大規模な構成でした。

中心人物は岩倉具視(いわくらともみ)で、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らが副使として同行しました。また、若手官僚や通訳、留学生も多数参加しており、単なる外交団というよりも「国家的な学びの遠征」とも言えるものでした。

使節団の目的とその背景

第一の目的は、幕末に欧米列強と結ばされた「不平等条約」の改正です。日本は安政の五カ国条約などにより、関税自主権がなく、外国人には治外法権が認められるなど、国家主権を著しく制限されていました。これを是正し、対等な国際関係を築くため、欧米諸国と交渉を行う必要がありました。

第二の目的は、欧米の政治、軍事、教育、産業、文化などを視察し、日本の近代化に役立てることです。明治維新直後の日本は、国内の政治体制や産業基盤がまだ整っておらず、「文明開化」の方針のもと、欧米の制度を参考にして国づくりを進めていこうとしていました。

世界一周の行程と見聞

使節団は1871年12月、横浜港を出発。まずアメリカに向かい、ワシントンD.C.ではグラント大統領と面会し、条約改正の予備交渉を行いました。結果として条約改正そのものは「まだ日本の制度が未熟である」として受け入れられず、交渉は失敗に終わります。

その後、使節団はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、イタリア、スイス、オーストリア、スウェーデンなど、ヨーロッパ諸国を歴訪。立憲君主制、議会制度、教育機関、軍事制度、交通インフラ、工業技術などを視察し、膨大な知識を持ち帰りました。

約1年10か月、約30か国を訪れた彼らの旅は、世界一周の形となり、1873年9月に帰国します。

得られた成果と明治国家への影響

条約改正こそ失敗に終わったものの、この旅で得られた知見は、日本の制度整備に極めて大きな影響を与えました。

たとえば、アメリカで学んだ「普通教育の普及」は、1872年の学制発布に反映され、日本に初めての全国的な教育制度が導入される契機となりました。

ドイツで見た中央集権的な官僚制度は、のちの内務省の構築や徴兵制に影響を与えています。イギリスでの議会制度視察も、日本が後に立憲君主制と憲法制定(大日本帝国憲法)を導入するうえで参考となりました。

また、殖産興業政策のもと、製糸業や鉄道などの産業基盤整備にも視察成果が活かされ、日本は急速に近代化の道を進みます。

留学生たちの役割

使節団に随行した10歳前後の子どもたちは、長期間現地に残されて教育を受けました。彼らはのちに帰国し、近代日本の各分野で重要な役割を果たします。特に有名なのが津田梅子です。彼女はアメリカで女性教育を学び、帰国後に女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設し、女性の社会進出に大きく貢献しました。

また、当時の使節団が記録した『特命全権大使米欧回覧実記』は、視察の詳細な記録として現代でも貴重な史料となっています。

内政への波紋と帰国後の展開

使節団が世界を回っている間、日本では西郷隆盛や板垣退助らが留守政府を運営していました。しかし使節団が帰国した直後、政府内部では「征韓論」をめぐる対立が激化。岩倉具視や大久保利通らは対外強硬派を抑え、内政重視の姿勢を貫いたため、西郷らが下野する「明治六年の政変」が発生します。

このように、使節団の旅は外交・近代化だけでなく、国内政治の方向性にも大きな影響を与えたのです。

まとめ

岩倉使節団
岩倉使節団は、明治初期の日本が世界に目を向け、近代国家への道を模索した象徴的な外交・視察プロジェクトでした。条約改正こそ実現しなかったものの、その経験は教育・政治・産業など多岐にわたる分野に影響を与え、明治維新後の日本の方向性を決定づけました。

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