要約
戦国時代、徳川家康が武田信玄に大敗した「三方原の戦い」には、有名な“脱糞エピソード”が伝えられています。冷静沈着な印象のある家康ですが、このときは命からがら逃げ帰り、恐怖のあまり失禁したとされています。本記事では、なぜ家康がこのような屈辱を味わったのか、三方原の戦いの経緯とその後の影響を、ユニークな視点から詳しく解説します。
ミホとケンの対話

ねえケン、徳川家康って…戦でウンコ漏らした話、知ってる?

えっ!?家康ってあの江戸幕府作った人だよね!?マジで!?

マジだよ。『三方原の戦い』って戦で、武田信玄にボコボコにされたの

うわー、でも戦でウンコって…それ、ほんとなの?

完全な史実とは言えないけど、江戸時代の記録にも書かれてるの

なんでそんなことまで残ってるんだろ…

家康がそのときの自分を戒めるために、自画像まで描かせたんだよ

ええ!?ウンコの記念に!?

違う違う、自分の油断と失敗を忘れないようにってことね

あ、なるほど…。で、その三方原の戦いってどんな戦だったの?

1572年、武田信玄が西へ進軍してきて、家康は浜松城で迎え撃つの

信玄って、風林火山の人だよね?強そう…

そう。しかも家康よりずっと戦慣れしてて、兵も優秀だった

じゃあ家康負けるのって当たり前だった?

実は、家康は武田軍の撤退を見てチャンスだと思って追撃しちゃったの

追いかけたら罠だったとか!?

そのとおり!それが武田の戦術で、『撤退』に見せかけて誘い込んだの

やられた…完全に引っかかってる!

その結果、徳川軍はボロ負け。家康は命からがら浜松城へ

それで恐怖で…漏らしちゃったのかぁ

武士でも人間だもんね。でもこの経験が家康を強くしたの

あ、これがきっかけで冷静沈着な家康に?

そう。だから、失敗をどう活かすかが大事ってことだね

ウンコから学ぶって深いな…

ちょっと表現アレだけど、確かに深いね(笑)
さらに詳しく

徳川家康(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
三方原の戦いとは?
1573年1月25日、遠江国(現在の静岡県西部)にて、武田信玄軍と徳川家康軍が激突したのが「三方原の戦い」です。
家康は信玄の進軍を止めるために出陣しましたが、軍略に長けた信玄の奇襲に遭い、わずか数時間で敗走することになります。
この戦いで徳川軍は多くの兵を失い、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰る羽目になりました。
勝者である信玄は、戦後に城を攻めることなく引き上げたため、家康の命運はつながったとも言えるでしょう。
「しかみ像」とは?

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)
戦後、家康は敗戦の悔しさと恐怖を忘れないよう、自らの情けない表情を描かせた肖像画を残しました。これが有名な「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」です。
絵に描かれている家康は、眉をひそめ、歯を食いしばった苦渋の表情をしており、その顔つきから「しかみ(しかめっ面)像」と呼ばれるようになりました。
この肖像画は家康が自戒のために飾っていたとされ、自分の失敗を正面から受け入れた姿勢が、後の冷静で着実な政治手腕につながったとも考えられています。
「脱糞伝説」は本当か?
家康が敗走中に恐怖のあまり脱糞したという逸話は、一次資料には明確に記されていません。しかし、江戸時代の軍記物や講談などで語られるようになり、広く知られるようになりました。
当時の武士にとって、敗北や恐怖による失禁は大きな恥であり、これをわざわざ語り継ぐのは異例です。
しかし、家康があえてその恥を隠さず語らせたことで、彼の人間味や謙虚さが浮き彫りになり、逆に評価されたとも言われています。
家康の成長とその後の戦略
三方原での大敗を経て、家康は戦い方を大きく改めるようになります。
それまでの「武将らしい果敢な戦い」ではなく、徹底的に情報を集め、慎重に準備し、勝てる戦だけを選ぶスタイルへと変化していきました。
例:関ヶ原の戦いと大阪の陣
例えば、1600年の関ヶ原の戦いでは、圧倒的な情報戦と裏工作で西軍を分断し勝利を収めました。
さらに1614年・1615年の大阪の陣でも、圧倒的な兵力と慎重な戦術で豊臣家を滅ぼし、ついに天下を掌握します。
これらの勝利の背後には、三方原の苦い経験が活かされていたと見る向きも多く、家康が失敗から学び抜いたリーダーであったことがわかります。
歴史に残る「黒歴史」の価値
「脱糞した将軍」というネタ的な逸話も、一人の人間が成長するために必要な“恥”として見ると、その重みが変わってきます。
家康は自らの失敗を隠すのではなく、堂々と記録させ、それを未来への教訓としたのです。
この姿勢こそが、彼を江戸幕府という長期政権の創設者に押し上げた要因の一つと言えるでしょう。
まとめ
三方原の戦いでの徳川家康の敗北と“脱糞エピソード”は、ただの笑い話ではなく、彼の後の人生を大きく変える教訓となりました。武田信玄の戦術に完敗し、命からがら逃げたこの経験が、後の冷静沈着な家康を形作ったのです。失敗を戒め、教訓とする姿勢が、天下統一への礎となりました。
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