要約
奈良時代、日本に正式な仏教の戒律を伝えるために唐から来日した鑑真。その道のりは過酷を極め、失敗を繰り返した末に失明してしまいます。それでも彼は決して諦めず、6度目の挑戦でついに日本の地を踏みました。本記事では、彼がなぜそれほどまでに日本を目指したのか、失明という障害を乗り越えた背景に迫ります。
ミホとケンの対話

ケン、鑑真(がんじん)って知ってる?

うーん、名前は聞いたことあるような?お坊さん?

そうそう、唐の時代のお坊さんで、日本に仏教を伝えたすごい人なの

へぇ〜、でも中国から日本ってめっちゃ遠いよね?

その通り!しかも当時は船旅がめっちゃ危険だったのよ

じゃあ、どうやって来たの?飛行機も新幹線もないよね?

鑑真はなんと…6回挑戦して、やっと日本にたどり着いたの

えぇー!5回も失敗してるの!? それってすごい執念…

しかも、その途中で失明してるんだよ

え、マジで?目が見えないのに旅を続けたの?

うん。でもそれでも、日本の仏教を正しく伝えるって使命感があったの

かっこよすぎる…現代だったら絶対美談になってるやつ

しかも、日本に着いてからも大活躍だったの

目が見えなくても?なにしたの?

唐招提寺を建てて、そこで僧たちに正式な戒律を授けたのよ

唐招提寺って聞いたことある!奈良にあるやつだよね?

そう、それが鑑真ゆかりのお寺

なんか感動してきた…海越えて目も見えなくなって、それでも仏教を伝えたんだね

うん。鑑真の行動力と覚悟って、本当にすごいと思う

俺もなんか、諦めずに頑張ろうって思えてきた!

その気持ち、大事だよ♪ 鑑真が残したのは仏教だけじゃなくて、生き方のヒントかもね
さらに詳しく

引用元:唐招提寺
鑑真とは?
鑑真(がんじん)は、西暦688年、中国・唐の揚州に生まれた名僧で、律宗の高僧として知られています。律宗とは、仏教の中でも戒律(修行者が守るべき規律)を重視する宗派で、当時の日本にはまだ正式な戒律を授けることができる僧侶がいませんでした。日本では僧侶の質や制度にばらつきがあり、仏教の教えが正しく伝わっていないという問題があったのです。
なぜ日本に来たのか?
当時の日本(奈良時代)は、仏教国家を目指す政策の一環として、戒律を正式に導入しようとしていました。そこで、日本からの使節団が唐に渡り、「戒律を授けてくれる高僧を招きたい」と依頼します。多くの僧がその要請を断る中で、鑑真だけが「私が行こう」と名乗り出たのです。
失明しても諦めなかった壮絶な旅路
5度の失敗と裏切り
鑑真は日本への渡航を5回試みるも、全て失敗します。
・嵐で船が難破する
・案内人に裏切られ、役人に通報される
・病気や疲労で弟子たちが倒れる
といった苦難が続きました。その過程で、鑑真自身も目の病にかかり、ついには失明します。
それでも揺るがなかった決意
視力を失った後も、鑑真は諦めませんでした。「日本の人々に仏の教えを伝える」という信念は揺るがず、6度目の挑戦でついに成功。西暦753年、66歳にして日本の地を踏みました。
日本での功績
戒律の授与
日本に渡った鑑真は、東大寺などで多くの僧に戒律を授けます。これにより、日本仏教に律宗という体系だった修行制度が導入され、僧侶の質の向上に寄与しました。
唐招提寺の建立
鑑真はその後、自らの住まいと修行の場として唐招提寺を創建します。現在も奈良に残るこの寺は、鑑真の精神と教えを受け継ぐ重要な文化財であり、世界遺産にも登録されています。
文化・医療・建築の伝来
さらに、鑑真は仏教だけでなく、中国の医療知識・建築技術・書道・彫刻なども日本に伝えました。こうした文化的影響は、日本の古代社会に大きな影響を与え、唐風文化の基礎を形成する一助となったのです。
鑑真の死とその後の影響
鑑真は来日から10年後の763年にこの世を去りますが、その遺徳は現代まで語り継がれています。唐招提寺には「鑑真和上坐像」が安置されており、日本最古の肖像彫刻のひとつとしても有名です。失明後に彫られたこの像は、まるで生きているかのようなリアリティを持ち、多くの人々の心を打ちます。
まとめ
鑑真は、命がけで日本に仏教の戒律を伝えた唐の高僧です。失明という大きな障害にも屈せず、日本への渡航を果たした彼の行動力と信念は、仏教のみならず、日本の文化や制度に大きな影響を与えました。その姿勢からは、困難を乗り越える勇気と覚悟を学ぶことができます。
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