権力の頂点で詠んだ一句!藤原道長「望月の歌」で平安貴族のドヤ顔炸裂?

藤原道長 平安時代

要約

平安時代の貴族・藤原道長は、摂政として絶大な権力を握り「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の…」という有名な和歌を詠みました。この歌は、満月のように欠けるところのない自分の権力を表現したもので、まさに頂点を極めた男のドヤ歌ともいえます。この記事では、その背景や意味、藤原道長の人生を会話形式でわかりやすく解説します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、“この世をば わが世とぞ思ふ”っていう歌、聞いたことある?

ケン
ケン

うーん、なんかちょっと中二病っぽい響きだね…誰が詠んだの?

ミホ
ミホ

ふふ、平安時代の超大物、藤原道長だよ。まさにリアル最強の貴族って感じ!

ケン
ケン

え!その人、なんでそんな自信満々な歌を詠んだの?

ミホ
ミホ

この歌、実は道長が摂政になって、娘たちを天皇の妃にして、自分の力が絶頂のときに詠んだものなの

ケン
ケン

え、えー!つまり、『この国はもうオレのもんだ!』って宣言した感じ?

ミホ
ミホ

そうそう、“満月のように欠けるところがない”っていう意味も込めて、“望月の欠けたることもなしと思へば”って続くんだよ

ケン
ケン

めちゃくちゃドヤってるじゃん!でも、そのくらいのこと言えるってすごいな

ミホ
ミホ

道長は、摂関政治を極めた人。娘を3人も中宮にして、自分の孫が次々天皇になったの

ケン
ケン

もはや将軍よりすごいんじゃ…

ミホ
ミホ

当時は天皇よりも実権を握ってたと言われてるよ。裏ボス的存在かな

ケン
ケン

じゃあ、その和歌って、いつ詠んだの?

ミホ
ミホ

1018年、娘・威子(いし)が中宮になったとき、宴の中で詠んだの

ケン
ケン

宴でそんな歌を詠むって、平安貴族、派手すぎない?

ミホ
ミホ

でもそれが文化だったの。自分の気持ちを和歌で表現するのがステータスだったのよ

ケン
ケン

…てことは、今で言うSNSの“俺すごいだろ”投稿みたいな?

ミホ
ミホ

まさに!でも和歌でさりげなく、優雅にドヤるのが平安流

ケン
ケン

和歌って奥深い…でも道長の人生、成功しかなかったの?

ミホ
ミホ

表面上はね。でも晩年は病に苦しんで、仏教に傾倒していったの

ケン
ケン

あ、なんか…そう聞くと少し人間っぽいな

ミホ
ミホ

そうなのよ。『この世をば~』の歌も、永遠じゃなかったってところがまた味があるよね

ケン
ケン

うん、満月もいつかは欠けるんだもんね…なんかロマンあるなあ

ミホ
ミホ

詠まれた背景を知ると、ただのドヤ歌じゃなくて、時代の鏡にも見えてくるでしょ?

さらに詳しく

藤原道長

「紫式部日記絵巻」より

藤原道長とは?

藤原道長(966年〜1028年)は、平安時代中期の政治家で、藤原北家の出身です。摂政・関白といった要職に就き、事実上、国家の実権を握りました。娘たちを天皇の后とすることで、自分の血筋を皇室に取り込み「摂関政治」の頂点を築きました。

「この世をば~」の歌の意味

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、道長が自身の絶頂期に詠んだ和歌です。「この世界は自分のもののように思える。まるで満月のように欠けるところがない」と訳され、道長の誇りと満足感が込められています。

歌が詠まれた背景

1018年、道長の娘・威子が中宮(皇后)となった祝宴の席で、この和歌が披露されました。当時、すでに長女・彰子や次女・妍子も天皇の后となっており、道長の孫が皇位を継ぐ状況にありました。その政治的完成を「満月」にたとえ、権力の極みに達した心情が表現されています。

晩年の道長と仏教への傾倒

晩年、道長は糖尿病のような病に苦しみました。仏教への信仰を深め、多くの寺院を建立・寄進しました。栄華の中にも無常を感じた道長の心情が、後に彼の権勢をさらに奥深いものとして見せています。

まとめ

藤原道長の「この世をば」の和歌は、彼が政治的な頂点に立った瞬間に詠まれた、時代を象徴する一首です。満月にたとえた権力の完成は、平安貴族の美意識と自負心をよく表しています。その一方で、晩年の道長は病に悩み、仏教に救いを求めたことから、栄華と無常というテーマも読み取れる和歌です。

オマケ

AIに栄華を極めた藤原道長が「望月の歌」をドヤ顔で詠む様子をイメージした画像を作成してもらうと、こうなりました。

藤原道長

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