要約
8世紀の奈良時代、称徳天皇が寵愛した僧・道鏡を天皇にしようとした「宇佐八幡神託事件」は、日本の王位継承の歴史を大きく揺るがしました。本記事では、道鏡がどのように権力を得て、なぜ天皇に近づいたのか、そしてそれを阻止した人物たちの動きまで、史実に基づいてわかりやすく紹介します。
ミホとケンの対話

ケン、女帝が僧侶を天皇にしようとした話って知ってる?

えっ、天皇にお坊さんが!? それ本当の話!?

うん、本当にあったの。奈良時代にね。女帝・称徳天皇と僧・道鏡の話よ

なんか…すごくドラマチックな匂いがする!

でしょ。称徳天皇は孝謙天皇として即位した後、病気のときに看病してくれた道鏡に心を許すようになるの

それで寵愛しちゃったんだ!?

そうなの。それから彼をどんどん出世させて、ついには“法王”にまでしたの

法王って…日本版ローマ法王みたいな?

まぁ、似たようなもので、僧侶として国家権力のトップに立ったって感じかな

それってヤバくない!? 天皇が僧に恋して、政治も渡しちゃったみたいな…

しかも、ついに『道鏡を天皇にすれば天下泰平』っていう神託まで登場するの

神様のお告げ!? 誰がそんなこと言ったの?

宇佐八幡宮から来たっていう神託を、大宰府の役人が都に伝えたのよ

ってことは…マジで道鏡が天皇になる可能性があったの?

あったの!しかも称徳天皇は独身で子どももいなかったから、皇統が絶えるかもって騒ぎになったのよ

え、天皇家の血が断たれちゃう!? 危なすぎるじゃん!

そこで登場するのが、和気清麻呂。称徳天皇に命じられて宇佐八幡に再確認に行ったの

ヒーロー登場って感じ?

うん、彼は『天皇は必ず皇族から出すべし』という新たな神託を持ち帰って、道鏡即位を阻止したの

かっこいい…清麻呂さん、ありがとう!

でもその後、清麻呂は左遷&改名されてしまうの。『穢麻呂(きたなまろ)』って…ひどいよね

え、嫌がらせ!? 政敵の名前を変えちゃうってどんな権力なの…

結局、称徳天皇が亡くなったことで道鏡も失脚。皇統は光仁天皇に引き継がれて危機を脱したの

ふ?、ギリギリだったんだね…歴史の転機だったんだ!

うん。もし道鏡が天皇になっていたら、日本の天皇制そのものが変わっていたかもしれないのよ
さらに詳しく

称徳(孝謙)天皇『歴代尊影』作者:三宅幸太郎
称徳天皇と道鏡の関係とは?
称徳天皇(孝謙天皇)は、奈良時代唯一の女性天皇として重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと)した特異な存在です。彼女は天平宝字5年(761年)ごろ、病に倒れた際に僧・道鏡の看病を受け、次第に道鏡を信頼し、寵愛するようになります。
道鏡は法相宗の高僧であり、梵語に通じ、内道場に出入りを許された数少ない高僧でした。この信頼を背景に、彼は異例の出世を遂げ、ついには「法王」という前代未聞の地位に就任しました。
道鏡が天皇に!? 宇佐神託事件
神護景雲3年(769年)、九州・大宰府の主神である中臣習宜阿曾麻呂が、「道鏡を天皇にすれば天下泰平になる」という神託を宇佐八幡宮から受けたと奏上しました。
この報告により、非皇族の僧が天皇になる可能性が急浮上します。称徳天皇はこれを信じ、事実上の皇位継承を進めようとしました。しかし、これに対して勅使として派遣された和気清麻呂は、「天皇は必ず皇族から出るべき」とする別の神託を持ち帰り、道鏡の即位を阻止しました。
天皇家の血統断絶の危機
称徳天皇は独身かつ子どもを持たない天皇でした。道鏡が天皇となった場合、天皇家の男系血統は事実上断絶するおそれがありました。
このため、宇佐神託事件は単なる宗教的トラブルではなく、王朝の存続を脅かす国家的危機だったのです。
逸話としての道鏡巨根説

道鏡(作者:歌川国貞)
後世、道鏡には「巨根伝説」が語られるようになりました。これは称徳天皇との親密な関係を風刺・揶揄したものとされ、江戸時代には川柳の題材にもなっています。
川柳に見る俗説の広まり
代表的な川柳には以下のようなものがあります:
・「道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)」
・「道鏡は すわるとひざが 三つでき」
これらは、道鏡の身体的特徴を風刺的に誇張したものであり、称徳天皇の“愛”が権力に影響したことを民間がどう受け止めたかを反映しています。
成立の背景と誤解
この伝説は、平安時代以降の説話集(『日本霊異記』『古事談』など)に登場し、道鏡の名前「どうきょう」が性神「道饗(どうきょう)」と混同されたこと、さらに「道祖神」との結びつきが想像されて誇張されたと考えられています。
また、歴史作家の海音寺潮五郎は、『史記』の呂不韋と嫪毐(ろうあい)を下敷きにした構造だと指摘しており、東アジア全体に見られる「性と権力の寓話」が影響していると考えられます。
実際には、信頼できる一次史料に道鏡の身体的特徴を記したものはなく、これらの話は後世の創作・風聞と考えるべきです。
道鏡の失脚と称徳天皇の最期
称徳天皇は神護景雲4年(770年)に崩御します。道鏡はその死の間際には会うことすら許されず、政権から完全に排除されました。光仁天皇が即位することで皇統は継続され、道鏡は下野国に左遷され、表舞台から姿を消しました。
一方、和気清麻呂も称徳天皇の怒りに触れて一時は改名させられ、「穢麻呂(きたなまろ)」と呼ばれるなどの侮辱を受けましたが、のちに復権しています。
歴史が変わっていたかもしれない瞬間
この一連の事件は、日本史上唯一、僧が皇位に就く寸前まで行ったケースであり、もし道鏡が即位していれば、仏教国家化や王朝の断絶といった未来が現実になっていた可能性もありました。
和気清麻呂の進言がなければ、現在の皇室も存在しなかったかもしれない──そうした「歴史の分岐点」に我々は立っていたのです。
まとめ
称徳天皇と道鏡の関係は、愛情と政治、宗教と国家権力が交錯した日本史でも稀有な事件でした。特に、非皇族の僧侶を天皇にしようとした動きは、天皇家の存続という視点からも重大な転機であり、宇佐神託事件によって歴史の方向が大きく変わりました。
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