ローマ帝国が震えた!暴君ネロと母アグリッピナの毒殺劇の真相とは

アグリッピナ 古代

要約

ローマ帝国第5代皇帝ネロは、暴君として知られていますが、その悪名の始まりは母アグリッピナとの確執にありました。母の強すぎる支配と、息子の自立心がぶつかり、やがてネロは母を毒殺しようとします。歴史に残るその親子関係の真相と背景、そしてネロの暴君伝説の始まりについて、エピソードを交えて解説します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、ローマの暴君ネロって聞いたことある?

ケン
ケン

なんかすごい悪い皇帝だったって話は聞いたかも?

ミホ
ミホ

そうそう、でも実は“母親を殺した”ってところから悪名が広まったのよ

ケン
ケン

えっ!? 自分の母親を!? それってヤバすぎない!?

ミホ
ミホ

かなりね。でも、背景を知ると少し事情も見えてくるの

ケン
ケン

どういうこと?

ミホ
ミホ

ネロの母、アグリッピナはとても野心家でね。ネロを皇帝にするために前の皇帝とも結婚してるの

ケン
ケン

え、それって…すごい手段だね…

ミホ
ミホ

アグリッピナは、ネロが皇帝になった後も自分が裏から支配しようとしたのよ

ケン
ケン

あー、なるほど。ネロはお母さんにずっと操られてたの?

ミホ
ミホ

最初はそう。でも次第にネロが自立しようとすると、母が邪魔になってきたの

ケン
ケン

え、それで毒殺しちゃったの?

ミホ
ミホ

実は、最初は毒で殺そうとしたけど失敗。次に船ごと沈める計画を立てたの

ケン
ケン

え!? 船沈め!? 映画みたい!

ミホ
ミホ

でもそれも失敗して、最終的には刺客を送って殺したの

ケン
ケン

まさかの三段階…それだけ執念がすごいね

ミホ
ミホ

ローマの皇帝は命がけの椅子だったからね。母親でさえ脅威だったの

ケン
ケン

でも、そんなことしたらネロもヤバいやつに思われるよね?

ミホ
ミホ

うん。それ以降、ネロは暴君としての行動がエスカレートしていったの

ケン
ケン

やっぱり、あのお母さん殺しがターニングポイントなんだ…

ミホ
ミホ

まさに。ローマ史の中でも最も有名な親子の悲劇なのよ

ケン
ケン

なんか…怖いけど、人間ドラマとしてもすごく深いね

さらに詳しく

ネロ

ネロ

ネロとはどのような皇帝か?

ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)はローマ帝国第5代皇帝で、在位は西暦54年から68年までです。

母アグリッピナの策略により16歳で皇帝に即位し、当初は政治顧問である哲学者セネカや親衛隊長ブルルスらに支えられ、穏健な政治を行いました。この時期には芸術と文化にも興味を示し、ローマ市民からの人気も一定のものがありました。

しかし、次第にネロは自我を強め、母や助言者たちの存在を煩わしく思うようになります。特に母アグリッピナの干渉を嫌い、彼女を排除することがネロの人格と政治姿勢に大きな影を落とすことになります。

母アグリッピナの野望と支配

アグリッピナ

アグリッピナ

アグリッピナはカリグラ帝の妹で、血筋的にも権力に近い存在でした。彼女は前夫との間に生まれた息子ネロを皇帝にするため、ローマ皇帝クラウディウスと再婚し、自らの息子を養子とさせて皇位継承者に据えました。

さらに、クラウディウスの実子ブリタンニクスを毒殺したともいわれています(ただし、これは後世の歴史家の推測も含まれています)。

ネロが皇帝となった後も、アグリッピナは政治の実権を握ろうとし、宮廷内で強い影響力を持ち続けました。彼女は息子の決断に対しても意見し、しばしば自分の意向を押し付けたため、ネロとの関係は次第に悪化します。

アグリッピナ暗殺計画の全貌

ネロは母親の影響を断つため、暗殺を計画します。最初は食事に毒を混ぜて殺害しようとしましたが、アグリッピナは用心深く、常に毒見をさせていたため計画は失敗します。

次にネロは、アグリッピナを招いた祝宴の帰りに、仕掛けを施した崩落式の船で事故死に見せかけて殺そうとしました。しかし、計画はまたしても失敗。アグリッピナは海に投げ出されながらも泳いで岸にたどり着き、生還してしまいます。この失敗に激怒したネロは、ついに直接刺客を送り、自宅でアグリッピナを殺害させたのです。

この事件はローマ中に衝撃を与え、多くの人々がネロに対して恐れと不信を抱くようになりました。

母殺しの影響とネロの暴君化

アグリッピナを殺害した後、ネロは精神的に不安定となり、猜疑心に取り憑かれるようになります。かつての恩師セネカにも不信感を抱き、やがて彼にも自殺を命じます。また、自身の宮廷での反乱を恐れ、元老院や貴族たちに対しても粛清を行うようになりました。

西暦64年のローマ大火の際、ネロが火災を楽しみながら竪琴を弾いていたという逸話が有名ですが、これは後世の創作とされることが多いです。ただし、彼が火災の責任をキリスト教徒に転嫁し、多くの人々を迫害したことは事実とされています。

このような行動からネロは「暴君」としての評価を確立し、やがてローマ市民からの信頼も失っていきます。

ネロの最期と歴史的評価

ネロの圧政に耐えかねた各地の属州や軍団は反乱を起こし、最終的に元老院は彼を「国家の敵」として認定しました。孤立無援となったネロは西暦68年、自ら命を絶ち、ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝はここに終焉を迎えました。

ネロの治世については、タキトゥスやスエトニウスといったローマ時代の歴史家たちが否定的な記述を残しており、彼の名は「暴君」の代名詞となっています。しかし近年では、文化振興や都市計画(ローマ大火後の再建など)といった側面から再評価する声も出ています。

まとめ

アグリッピナ

ネロは単なる「暴君」ではなく、母アグリッピナとの激しい確執が彼の運命を大きく左右しました。母の支配から逃れようとしたネロは、ついには殺害という手段に出てしまいます。この事件を境にネロの行動は過激化し、ローマ史上でも特に悪名高い皇帝となりました。背景には権力闘争や精神的重圧があったことも見逃せません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました