要約
イギリス王リチャード1世は「獅子心王(ライオンハート)」の異名で知られ、勇敢な騎士として多くの伝説を残しました。しかし彼は、実は英語をほとんど話せなかったのです。当時のイギリス王室はフランス文化の影響下にあり、フランス語が支配階級の共通語でした。この記事では、リチャード1世の生涯や、彼が英語を話さなかった理由、中世ヨーロッパの王室文化の背景について、楽しい対話形式でわかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

リチャード1世って聞いたことある?

あー、なんか『獅子心王』っていう勇ましい名前の人だよね?

そうそう!十字軍で有名なイングランドの王様。でもね、英語、話せなかったんだよ?

え!? イギリスの王様なのに? それってありなの!?

実は当時のイギリス王族って、フランス語が主流だったの。イギリスを支配してたノルマン系の王朝だったからね

へぇー、でもなんでそんなにフランス語にこだわってたの?

リチャード1世の家系って、ノルマン・コンクエストの流れをくむプランタジネット家なの。もともとフランスの領主だったの

つまり…フランス出身の一家がイギリスの王様になってたってこと?

そんな感じ!リチャード自身も、人生のほとんどをフランスで過ごしたし

え、じゃあイギリスのことそんなに知らなかったんじゃ?

実は在位中のほとんどを外国で過ごしてたから、イギリスには数ヶ月しかいなかったって説もあるのよ

イギリスの王なのに海外にばっかり!?

うん、十字軍で戦ってたし、捕まって身代金を払わせたりもしてたしね

王様って大変だなぁ…でも、なんで『獅子心王』なんてかっこいい名前がついたの?

それは勇敢な戦いぶりが称えられてのこと。実際、部下からも敵からも一目置かれてたのよ

英語が話せなくても尊敬されてたんだね

そうなの。騎士道精神が強くて、戦いに命をかける姿が理想の王として語られたの

ちょっと映画の主人公みたい!

ほんとにね。でも国内政治にはあまり関心がなかったから、国民にはそこまで愛されてなかったかも…

なるほど、かっこよくても内政は苦手か…

そういうところも、歴史の人物って人間らしくて面白いよね

たしかに!リチャード1世、ちょっと見方が変わったかも!
さらに詳しく

リチャード1世
リチャード1世とは?
リチャード1世(Richard I、1157年–1199年)は、イングランド王ヘンリー2世とフランスのアキテーヌ女公アリエノールとの間に生まれた王子で、プランタジネット朝の一員です。
1189年に父ヘンリー2世の死去によりイングランド王に即位しましたが、彼の統治は「軍人王」とも称されるほど戦争に明け暮れたものでした。とくに有名なのは第3回十字軍での活躍で、キリスト教勢力の軍を率いてイスラムの英雄サラディンと戦ったことで、ヨーロッパ中にその名を轟かせました。
その勇敢さから「獅子心王(ライオンハート)」という異名を得ましたが、一方で国内統治への関心は薄く、治世のほとんどを戦地か国外で過ごしました。
英語を話せなかった理由
リチャード1世が英語を話せなかった理由は、当時のイングランド王室の言語的・文化的背景にあります。彼の王朝であるプランタジネット朝は、もともとノルマン・コンクエスト(1066年)以降に成立した王朝で、支配層はフランス北西部出身でした。そのため王族や貴族の間では、日常的に中世フランス語(オイル語)が使用されていました。
リチャード自身もイングランドではなく、主にフランスのアキテーヌ地方で育ちました。彼の母アリエノールはフランスでも有数の文化人であり、詩や音楽、騎士道文化に強く影響を受けた環境で成長したリチャードは、ラテン語やオック語(南フランスの言語)、オイル語を話したものの、英語にはほとんど触れていなかったとされています。
当時の英語(中英語)はまだ発展途上で、庶民の言語とみなされており、支配階級が話すには不適当と考えられていました。
英国王でありながら英国にいなかった王
リチャード1世の治世は約10年間(1189年〜1199年)続きましたが、そのうちイングランド国内に滞在していたのは、わずか6ヶ月ほどだったといわれています。
王に即位してまもなく第3回十字軍に出発し、その後は地中海世界やフランスでの戦闘に明け暮れました。また、帰国途中でオーストリア公に捕らえられたことで、莫大な身代金をイングランド国民に課すことになり、国内では不満が募りました。
リチャードの国外活動の多くは個人的な名誉や軍事的野心に基づくもので、イングランド王としての義務よりも騎士としての理想を優先したといえるでしょう。これは彼の弟であり、後に「失地王」と呼ばれるジョン王と比較しても、政治的手腕より軍事的栄誉を重視していたことが顕著です。
騎士道の体現者としてのリチャード
騎士道とは、中世ヨーロッパにおける武士道のような道徳的・社会的理念であり、勇気・忠誠・礼節・信仰心を重んじるものでした。リチャード1世はまさにその体現者とされ、敵味方問わずその勇敢さや騎士らしさを称賛されました。
第3回十字軍では、サラディンと直接対決こそなかったものの、数々の戦いに勝利をおさめ、サラディンからも一目置かれる存在でした。
また、彼自身が詩や音楽にも通じていた文化人であったことから、宮廷文化の担い手としても一部で高く評価されています。現存する詩の断片なども確認されており、戦だけでなく芸術への関心も強かったといわれています。
最期とその評価
1199年、リチャード1世はフランス・リモージュ近郊の城を包囲中に、クロスボウの矢に当たり負傷。その傷がもとで死去しました。彼の死後、イングランド王位は弟ジョンに引き継がれます。リチャードの評価は時代によって揺れ動きますが、現代では「勇敢な戦士であると同時に、政治的には無関心だった王」として知られています。
国内政治を軽視したことで、彼の治世中に国庫は疲弊し、庶民への税負担は重くなりましたが、その英雄的なイメージと騎士道精神は、特に19世紀以降のロマン主義の時代に理想化され、イングランド王の中でも特別な存在として語り継がれています。
まとめ
リチャード1世は、勇猛果敢な「獅子心王」として名を残したイギリス王ですが、実際には英語をほとんど話さず、生涯の多くをフランスで過ごしました。彼の行動や背景を知ることで、中世ヨーロッパにおける王族の多国籍的な立場や、言語と文化の関係について理解が深まります。
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