要約
黒田官兵衛は豊臣秀吉の名軍師として知られていますが、実は天下を狙っていたのでは?という説があります。本記事では、官兵衛の行動や発言、家康との関係性をもとに、その可能性を探ります。天下取りを巡る駆け引きと、もし官兵衛が動いていたらという歴史のifにも注目します。
ミホとケンの対話

ケン、黒田官兵衛って知ってる?

うーん、なんか名前は聞いたことあるけど…戦国の人?

そうそう!豊臣秀吉の天才軍師で、作戦の立案とかすごかったのよ

へぇ〜、秀吉のブレーンってこと?

まさにそう。でもね…実は官兵衛、自分で天下を狙ってたんじゃないかって話もあるの

えっ!? 味方なのに!?

そういう見方もあるの。たとえば、秀吉が亡くなった後、家康に近づいたでしょ?

あ、それって裏切りじゃないの?

でも家康に仕えることはなかったの。むしろ自分の息子・黒田長政を使って、影で動いてた感じ

うわ〜、黒幕感ある!

関ヶ原の戦いのとき、長政は東軍=家康側に付いたんだけど、官兵衛もそこに仕掛けてた節があるのよ

でも結局、天下は家康が取ったんだよね?

そう。でも、家康が動く直前、官兵衛は兵を集めて密かに行動してたって記録があるの

え! それって、自分で政権を狙ってたってことじゃ…?

可能性は高いね。実際に『天下を狙えるタイミングだったのに』って言われるくらい

でもなんで行動しなかったの?

諸説あるけど、健康を崩していたとも、家康に遠慮したとも言われてる

もったいない〜!もし官兵衛が天下取ってたらどうなってたんだろ?

それが『歴史のif』の面白いところだよね♪

黒田官兵衛って、ただの軍師じゃなくて野心家だったんだ!

うん、でもその知略と慎重さが彼らしさなの。天下を狙いつつ、慎重に動いた賢者とも言えるわ
さらに詳しく

黒田如水(官兵衛)居士画像(崇福寺蔵)
黒田官兵衛とは?
黒田官兵衛(本名:黒田孝高)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した軍師であり、豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献した人物です。播磨国(現在の兵庫県)姫路の生まれで、若くして戦略眼と政治力に優れていたことから、早くから戦国武将たちに一目置かれていました。
彼は単なる軍師ではなく、外交・築城・内政にも優れたオールラウンダーでした。その知略と人望により、秀吉の西国進出に不可欠な存在となります。
秀吉を動かした男
中国大返しと本能寺の変
本能寺の変(1582年)で織田信長が明智光秀に討たれた直後、秀吉はすぐに毛利との和睦を成立させ、京に戻って光秀を討ちました。この驚異的なスピードの撤退作戦「中国大返し」の背景には、官兵衛の進言があったと伝えられています。
このときの決断力と機動力が、秀吉を一気に信長の後継者へと押し上げるきっかけになりました。つまり、官兵衛の助言がなければ、秀吉は天下人になっていなかったかもしれないのです。
なぜ天下を取らなかったのか?
秀吉の警戒心
秀吉は、官兵衛の才能を高く評価していた反面、「官兵衛に天下を取らせてはならぬ」とまで語ったという逸話が残されています。それほどまでに、官兵衛の才覚が脅威だったのです。
また、天下取りに向けた野心を官兵衛自身が持っていたかは定かではありませんが、彼の能力と立場を考えれば、十分に天下を狙える実力を持っていたことは確かです。
関ヶ原の戦いとその後
なぜ動かなかったのか?
1600年の関ヶ原の戦いでは、官兵衛の息子・黒田長政が徳川家康率いる東軍に加わり、主要な戦力として活躍しました。戦後、長政は筑前52万石を与えられ、黒田家は大名としての地位を確立します。
一方で、官兵衛自身はすでに出家して「如水」と名乗っており、政治や戦から身を引いていました。しかしこの時点で、官兵衛が動けば九州から家康に対抗する勢力を築けたという見方もあります。
「もし官兵衛が動いていたら?」というIF
仮に官兵衛が関ヶ原の戦後に勢力をまとめ、西国諸大名を糾合して徳川政権に対抗していたら、日本の政権構造は大きく変わっていたかもしれません。中津城を拠点とする戦略的優位や、息子・長政の軍事力、そして官兵衛自身の知略を加味すれば、徳川家康にとって最大の脅威になり得た存在だったのです。
出家の意味とその選択
官兵衛は、自ら権力争いに加わらない道を選びました。それは単なる信仰心からではなく、さらなる戦乱を防ぐための政治的判断だったとも考えられます。また、戦乱に疲弊し、平穏を求めた晩年の心理も読み取ることができます。
彼は病により片足を失いながらも、その精神は衰えず、静かに時代の移り変わりを見届けました。「本気を出せば天下人になれた男」が、あえて静かに退いたという選択は、ある意味で彼の知略と覚悟の証と言えるでしょう。
まとめ
黒田官兵衛は表向きは秀吉の忠臣として知られていますが、その冷静で先見の明ある行動の裏には、天下取りを見据えた動きがあったとする説もあります。結果的には政権を握らなかったものの、その才知は戦国屈指であり、まさに「影の天下人」とも言える存在でした。
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