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ロシア皇太子を斬りつけた!? 大津事件の衝撃と津田三蔵の運命

大津事件 日本の近代

要約

1891年、ロシアの皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が来日中、大津で警備中の巡査・津田三蔵に襲撃されるという衝撃の事件が発生しました。これは「大津事件」と呼ばれ、当時の日本政府や国民に大きな衝撃を与えました。列強との外交問題になりかねなかったこの事件を、日本はどのように乗り越えたのか?そして、犯人・津田三蔵の動機と裁判の行方は?19世紀末の国際情勢と法の独立をめぐる一大事件を、対話形式でひも解きます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、大津事件って聞いたことある?

ケン
ケン

んー、大津って滋賀のあたり?観光名所かな?

ミホ
ミホ

たしかに観光地でもあるけど、昔そこでロシアの皇太子が襲撃されたんだよ

ケン
ケン

えっ、え!?ロシアの偉い人が?誰がやったの?

ミホ
ミホ

犯人は、日本の警官・津田三蔵。自分が警備中の相手に斬りかかったの

ケン
ケン

マジで!?それ、外交的に超やばくない?

ミホ
ミホ

うん、日本とロシアの関係が一気に悪化する恐れもあったの

ケン
ケン

そのロシアの皇太子って、のちの…?

ミホ
ミホ

そう、後のロシア皇帝・ニコライ2世。日露戦争のときの相手だよ

ケン
ケン

えぇ…そんな人に日本で怪我させちゃったのか…

ミホ
ミホ

顔を斬られたけど、幸い命には別状なかったの。同行してたギリシャ皇太子が助けてくれたのも大きかった

ケン
ケン

で、日本はどうしたの?ロシアに謝った?

ミホ
ミホ

すぐに政府は謝罪して、明治天皇もお見舞いに行ったよ。国中が『戦争になるかも』って騒然としたの

ケン
ケン

津田三蔵って、なんでそんなことしたの?

ミホ
ミホ

それがね、動機ははっきりしてないの。精神的な問題があったとも言われてるけど…

ケン
ケン

もしかして、国家の陰謀とか?

ミホ
ミホ

いや、調査の結果、単独犯とされたの。政治的な背景もなかった

ケン
ケン

それにしても、そんな大事件の犯人ってどうなったの?

ミホ
ミホ

裁判になったんだけど、政府はロシアへの配慮から死刑を望んだの。でも裁判所は無期懲役にしたのよ

ケン
ケン

えっ!?政府の言うことを拒否したの?

ミホ
ミホ

そう。大審院長の児島惟謙は『法律に基づくべき』と突っぱねたの。司法の独立を守ったって言われてるの

ケン
ケン

カッコイイ…!でもさ、その後の津田はどうなったの?

ミホ
ミホ

北海道の網走刑務所に送られたんだけど、3年後に病気で亡くなったの

ケン
ケン

え…そんなに早く?

ミホ
ミホ

うん、肺結核だったと言われてるよ。精神的にも肉体的にも衰弱してたんだろうね

ケン
ケン

犯人とはいえ、なんか切ないね…

ミホ
ミホ

そうだね。でもこの事件で、日本の法制度や外交の信頼が試されたんだよ

ケン
ケン

結果的には、その“法に従った判断”が世界に評価されたってこと?

ミホ
ミホ

まさにそう。日本がちゃんとした“近代国家”として認められる大きなきっかけになったの

さらに詳しく

大津事件とは?

ニコライ皇太子

長崎訪問時のニコライ皇太子(上野彦馬撮影)

大津事件とは?

1891年(明治24年)5月11日滋賀県大津で発生したのが、大津事件です。
来日中だったロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、警備中の日本人巡査・津田三蔵に突然襲撃され、頭部に傷を負いました。

事件が発生したのは、ニコライが京都から琵琶湖を視察する途中でのこと。
警備担当であった津田三蔵が突如、サーベルで斬りかかるという衝撃的な行動に出たことで、日本とロシアの外交関係は一気に緊張
日本政府にとっては、国際信頼を揺るがす未曾有の危機となりました。

犯人・津田三蔵の人物像

津田三蔵

津田三蔵(西南戦争前後、陸軍伍長時代)

津田三蔵は熊本県出身の巡査で、当時35歳。
事件当日は京都府警に所属し、ニコライ皇太子の警護にあたっていました。

動機と精神状態

事件後の取り調べでも津田の動機は明確には判明せず、精神的な不安定さがあったとの証言もあります。
政治的な背景や共謀者の存在は否定され、単独犯とされました。

その行動が突発的だったこと、また精神鑑定の結果なども踏まえ、個人の衝動的犯行と結論づけられました。

日本政府と国民の対応

ロシア皇帝(ニコライ2世)

事件発生直後、日本政府は直ちにロシア側に謝罪
さらに、明治天皇自らニコライの見舞いに赴くなど、最大限の誠意を示しました。

国民の間では強いショックと怒りが広がり、新聞は「国辱」と非難。
街ではニコライの無事を祈る祈祷が行われ、市民による見舞金の募金活動も行われるなど、国家総出でロシアとの関係修復に努めました。

裁判と司法の独立

政府の圧力と裁判所の決断

事件を国際問題化させたくない政府は、津田を極刑(死刑)にするよう裁判所に圧力をかけました。
しかし、大審院長・児島惟謙はこれに屈せず、「法に基づいて裁くべきだ」と主張。

当時の刑法では、殺人未遂は死刑の対象外であり、その法解釈を守った判決として、無期懲役が言い渡されました。

この判断は、司法の独立性を守った象徴的な判決として、国内外で高く評価されることになります。

津田三蔵のその後

無期懲役を言い渡された津田三蔵は、北海道の網走刑務所に送られました。
しかし、事件からわずか3年後の1894年(明治27年)に病死。享年38。

死因は肺結核とされており、収監中の環境や、精神・肉体の衰弱が影響したと考えられています。
公の場に姿を見せることもなく、静かにその生涯を閉じました。

大津事件の歴史的意義

この事件は、単なる犯罪事件ではなく、近代国家・日本の法と外交の在り方を世界に問う出来事でした。

当時、日本は列強と結んだ不平等条約の改正を目指しており、「法治国家としての信頼」を得ることが重要な課題でした。

政府が感情や外交圧力に屈せず、司法の独立と法の支配を貫いたことは、列強からの評価を高める結果となりました。
大津事件は、まさに日本の法治と外交の成熟を象徴する歴史の転機といえるでしょう。

まとめ

大津事件

大津事件は、単なる犯罪事件ではなく、日本の近代化と国際社会における信頼構築に大きな影響を与えた歴史的な出来事です。津田三蔵の突然の襲撃は、国際問題へと発展しかねない危機を招きましたが、日本政府の対応と裁判所の判断は、結果として日本の司法制度の成熟と独立性を世界に示すこととなりました。

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