日本に大統領がいた?榎本武揚と幻の「蝦夷共和国」とは

幕末

要約

榎本武揚(えのもとたけあき)は幕末の激動期に、旧幕府軍の生き残りを率いて北海道に渡り、蝦夷地に「蝦夷共和国」を樹立しました。この共和国は短命ながらも、近代的な民主的制度を持ち、榎本はその初代“総裁”=大統領に就任します。この記事では、榎本がなぜ共和国を作ったのか、蝦夷共和国がどのようなものであったのか、そしてその最期とは何だったのかを、対話形式でわかりやすく紹介します。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねえケン、日本に大統領がいたって知ってた?

ケン
ケン

えっ!?アメリカの話じゃなくて?日本に!?

ミホ
ミホ

そう、日本人が作った『共和国』が一時的に存在してたのよ。

ケン
ケン

まじか…。それっていつの話?

ミホ
ミホ

幕末から明治維新にかけての頃。榎本武揚って人が関わってたの。

ケン
ケン

榎本武揚って誰?名前は聞いたことあるけど…

ミホ
ミホ

元は幕府の海軍の幹部。オランダ留学して西洋の技術や制度を学んだ人なの。

ケン
ケン

賢そう…。で、その人が共和国作ったの?

ミホ
ミホ

そう。戊辰戦争で幕府が敗れたあと、旧幕府軍を率いて北海道に渡ったの。

ケン
ケン

あっ、それって箱館戦争とか関係ある?

ミホ
ミホ

そうそう!その舞台が箱館(今の函館)。そこで『蝦夷共和国』を作ったのよ。

ケン
ケン

すごい!でも、なんで“共和国”だったの?普通は将軍とかじゃない?

ミホ
ミホ

実はね、西洋の制度を取り入れて“選挙で指導者を決める”近代的な形だったの。

ケン
ケン

え、選挙!? 日本でそんなの当時あったの?

ミホ
ミホ

形式的なものだったけど、一応“共和制”を採用してたのよ。榎本は“総裁”という大統領的立場だったの。

ケン
ケン

うわー、それめちゃくちゃ近代的じゃん!

ミホ
ミホ

そう。でも政府軍との戦いに敗れて、わずか半年で共和国は終わってしまったの…

ケン
ケン

うぅ…短すぎる…

ミホ
ミホ

でもね、榎本はその後も投獄されず、明治政府に迎えられて活躍するの。

ケン
ケン

え?敵だったのに!?

ミホ
ミホ

明治政府は彼の能力を高く評価したの。外務大臣や文部大臣にもなったのよ。

ケン
ケン

すごすぎ…なんか、敵味方を超えたドラマがあるね…

さらに詳しく

榎本武揚

箱館戦争前の榎本武揚(1868年)

蝦夷共和国とは?

蝦夷共和国とは、1869年(明治2年)、榎本武揚(えのもと たけあき)を中心とする旧幕府軍が蝦夷地(現在の北海道)に樹立した日本唯一の「共和国」と呼ばれる政権です。

正式な国号こそ存在しないものの、西洋の共和制を模範とした政治体制を取り入れ、近代国家としての形を目指しました。榎本は「総裁」という役職に就き、事実上の“初代大統領”となります。

当時、幕府の崩壊後に職を失った武士たちが行き場を求めて集まり、蝦夷地で新たな理想国家を築こうとしたこの動きは、日本史においても極めて異例です。

榎本武揚と土方歳三というリーダーたち

土方歳三

箱館戦争時の肖像写真(田本研造撮影、1868年)

榎本武揚は幕末の幕臣で、オランダ留学を経て西洋の軍事技術や国際法を学んだ知識人です。開明的な思想を持ち、幕府海軍の中心人物として活躍した後、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍を率いて蝦夷地へ渡りました。彼が目指したのは、封建制度にとらわれない自治と、武士の誇りを守る新しい国家の建設でした。

一方、土方歳三(ひじかた としぞう)は新選組副長として知られた人物で、榎本とともに蝦夷地へ渡ったもう一人のキーパーソンです。土方は蝦夷共和国において「陸軍奉行並」として軍事を担当し、共和国の防衛を一手に担いました。彼の存在があったからこそ、軍としての統制が保たれ、最後の最後まで士気が高く保たれていたといわれています。

共和制と理想の国づくり

蝦夷共和国の政治体制は、幹部を「選挙」で選出するという形式をとっており、当時の日本としては異例の民主的試みでした。榎本が「総裁」、松平太郎が「副総裁」、そして荒井郁之助、大鳥圭介らが要職に就きました。形式的ではあったものの、西洋的な「文民統治」の精神を体現しようとする姿勢が見られます。

また、五稜郭を本拠地とし、開拓や民政にも注力する意志がありました。軍政に頼らない自立的な国家を目指していた点で、単なる「敗残兵の拠点」ではなく、未来を見据えた国づくりの試みであったといえます。

箱館戦争と土方歳三の最期

しかし、蝦夷共和国の存在は新政府にとって看過できないものであり、1869年春、新政府軍が大挙して蝦夷地へ進軍します。これにより「箱館戦争」が勃発。土方歳三は最後まで徹底抗戦を貫き、精鋭部隊を率いて新政府軍を苦しめました。

その勇敢な戦いぶりは敵味方を問わず称賛されましたが、同年5月11日、一本木関門での戦闘中に銃弾を受けて戦死。享年35歳。彼の死は旧幕府軍の士気に大きな影を落とし、五稜郭陥落へとつながっていきました。

蝦夷共和国の崩壊とその後

榎本武揚

晩年の榎本武揚

同年5月18日、榎本武揚は新政府軍に降伏。半年足らずの蝦夷共和国はその幕を閉じました。しかし、この短命な政権は、日本において「民主主義的共和国」の先駆けとなる理念を提示した貴重な例とされています。

降伏後の榎本は投獄されますが、その知識と国際感覚を高く評価され、のちに明治政府に登用されます。外務大臣・逓信大臣・文部大臣などを歴任し、日露の国境問題解決(樺太・千島交換条約)にも関与。まさに“反逆者から国の重鎮へ”という数奇な人生を歩みました。

まとめ


榎本武揚は、幕府の敗戦後も武士の理想を掲げて北海道に渡り、日本唯一の共和制国家「蝦夷共和国」を樹立しました。この国家は短命でしたが、民主的制度や西洋の理念を取り入れた先進的な試みでした。榎本はその後、明治政府の一員として活躍し、日本の近代化にも重要な役割を果たしました。

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