要約
ペリーは日本開国の象徴的存在として知られていますが、実は彼にとって日本は本来の目的地ではなく、アジア貿易拡大のための「通過点」にすぎなかったという説があります。この記事では、ペリーの本当の目的や当時の国際情勢、日本がどのように対応したのかなど、わかりやすく掘り下げます。
ミホとケンの対話

ケン、ペリーって知ってる?

えーっと、黒船の人だよね!日本をビックリさせた!

大正解!でも実はね、ペリーにとって日本は目的地じゃなかったんだよ

えっ!じゃあなんで来たの!?

うん、それはね、アメリカの貿易のためだったんだ

貿易?日本と?

違うの、実は中国との貿易を広げたくて、その途中で日本に立ち寄ったの

へぇ〜!日本はついでだったの!?

うん、アジア進出の中で、日本も開港させたかったって感じかな

じゃあ、もし日本が拒否してたらどうなったの?

実はペリー、かなり強気だったから、武力で無理やり開港させる気だったんだよ

怖っ!そんなつもりで来てたんだ…

でも、日本も上手に交渉して、戦わずに済んだんだよ

交渉って、誰がやったの?

当時は江戸幕府の老中たちだね。有名なのは阿部正弘とか

阿部正弘…聞いたことないけど、すごい人なんだね!

うん、日本の未来を考えて冷静に対応した人だよ

ペリーって、日本だけがターゲットだと思ってた!

実際は、日本もアメリカにとってアジア貿易の足がかりだったの

そっかー、世界はもっと広く動いてたんだね!

その通り!幕末の日本も、世界の大きな流れの中にいたんだよ
さらに詳しく

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)
ペリーとは?
マシュー・カルブレイス・ペリーは、19世紀半ばのアメリカ海軍軍人であり、東インド艦隊司令官として日本との外交交渉に臨みました。1853年、4隻の蒸気船と帆船(いわゆる「黒船」)を率いて浦賀に来航し、日本に開国を要求しました。
アメリカ政府は、捕鯨活動に必要な補給地の確保、船員救助、さらには東アジアとの貿易拡大を目指しており、その実現のためにペリーに任務を託しました。ペリーは日本に対して武力を背景に交渉を進めるという強硬策を取る方針で臨んでいました。
なぜ日本はターゲットになったのか?
当時の世界情勢は、ヨーロッパ諸国がアジアに勢力を伸ばしつつある時期でした。イギリスはアヘン戦争(1840〜1842年)に勝利して清(中国)との貿易を大幅に拡大し、フランスやロシアもアジア進出に積極的でした。
アメリカも中国市場に関心を寄せており、清国と「望厦条約」(1844年)を結んで通商権益を確保していました。しかし、航海技術の限界により、長期間の航海には補給地が不可欠でした。日本列島は太平洋航路の中継地として地理的に非常に重要だったのです。
日本は鎖国政策をとっていましたが、オランダ商館を通じた一部の交易を除き、他国との交流を断っていました。アメリカは日本に対し、開国と寄港を求めることで自国の東アジア政策をより強固なものにしようと考えたのです。
ペリー来航の背景と戦略
ペリーが率いる艦隊は、まず武威を示すために最新鋭の蒸気船を並べて日本側に威圧感を与えました。当時の日本には蒸気船の存在自体が未知であり、巨大な黒い船から煙を吐き出す光景は強烈なインパクトを与えました。
ペリーは幕府に「アメリカ合衆国大統領からの親書」を手渡すよう要求し、交渉を翌年に持ち越すと宣言して一時退去しました。この間、日本国内では対応を巡って大混乱が起こり、幕府内でも開国か攘夷かで意見が割れました。
再来航したペリー艦隊は、より大規模な編成でやってきました。これに対し幕府はついに交渉に応じ、1854年に日米和親条約が締結されました。この条約により、日本は下田と函館の二港を開港し、アメリカ船への補給を認めることになりました。戦争を回避しつつ、自国の主権をある程度守る形での妥協でした。
日本側の対応と影響
幕府を中心にした日本政府は、黒船来航という衝撃に対し、極力冷静な対応を取ろうと努力しました。特に当時の老中・阿部正弘は、若手藩主や有能な人材を積極的に登用し、国防強化と外交方針の柔軟化を図りました。彼は諸大名に意見を求めるという異例の措置をとり、幕藩体制の中で国難を共有しようと試みました。
ペリー来航後、日本は欧米諸国との条約締結ラッシュに巻き込まれ、安政の五カ国条約(1858年)などさらなる開国を進めざるを得なくなります。この結果、幕府の権威は急速に低下し、尊王攘夷運動の高まり、明治維新へと時代は大きく動いていきました。
ペリーの本当の目的
こうして見ると、ペリーにとっての本当の目的は「日本の開国」そのものではなく、アジアにおけるアメリカの地位確立でした。特に中国市場を見据えた戦略的拠点の確保という意味で、日本は重要な「通過点」だったのです。日本を開国させることで、アジア太平洋全体における影響力を強化し、ひいてはアメリカの経済的利益を拡大しようと考えていたのです。
まとめ
ペリーにとって日本は、アジア貿易拡大のための「通過点」に過ぎず、最終目標ではありませんでした。しかし、ペリー来航をきっかけに日本は開国し、幕末の激動期へと突き進むことになりました。当時の国際情勢や幕府の対応を知ると、黒船来航の意味がより立体的に理解できます。
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