要約
徳川幕府13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)は、しばしば「うつけ(愚か者)」と評されることがあります。しかし、その評価には誤解や偏見も多く含まれていました。この記事では、家定の「うつけ」エピソードとされるエピソードを紹介しつつ、背景にある家定の実像や、彼が置かれた時代状況についても丁寧に解説します。
ミホとケンの対話

ケン、徳川家定って知ってる?

えーっと、徳川家康の子孫だよね?でも詳しくは…

そうそう、家定は江戸幕府の13代将軍なんだよ。

あれ?でもなんか『うつけ』って聞いたことあるけど…

うん、当時もそう噂されてたんだけど、単純じゃないの。

え、じゃあ本当にバカだったわけじゃないの?

ううん。実際、家定は体がすごく弱かったの。

体弱いと、バカ扱いされちゃうの?

昔は病気が原因で言動がおかしく見えた人も、理解されにくかったんだよ。

たとえばどんなエピソードがあるの?

たとえば、家定は将棋が大好きで、一日中対局してたって話があるの。

え、それってただの趣味じゃない?

「うん、だけど『政務をほったらかして遊んでる』って批判されたみたい。

えー、かわいそう!それだけでうつけ扱い?

しかも、家定は言葉もはっきり話せなかったとも言われてるんだ。

それって病気のせいだよね?

うん。脳に障害があったとも、てんかんだったとも言われているの。

なんか、時代が違うだけで評価変わるね…

そうなの!実際、家定が将軍になったのは家臣たちの思惑も絡んでるし。

どういうこと?

権力を握りたい大老・井伊直弼たちにとって、扱いやすい将軍が都合よかったんだよ。

えっ、家定は操り人形にされてたの!?

そんな見方もあるよ。でも本人も、精一杯生きたはずだよ。

家定、めっちゃ苦労してたんだなあ…

だから単純に『うつけ』って笑えないんだよね。

うん、もっと家定に優しくしてあげたくなったよ!
さらに詳しく

徳川家定像(徳川記念財団蔵)
徳川家定(とくがわいえさだ)とはどんな人物か?
徳川家定(1824年〜1858年)は、江戸幕府第13代将軍です。父は第12代将軍・徳川家慶、母は慶光院。幼い頃から病弱で、言語障害やてんかんのような症状があったとも伝えられています。
身体能力や精神的な発達にハンディキャップがあったため、将軍としての資質を疑問視されることもありましたが、家慶はあえて長男である家定を後継に選びました。これは、家督相続において「長子相続」が原則とされた武家の慣例や、家内の安定を優先したためと考えられています。
「うつけ」と呼ばれた理由とエピソード
家定が「うつけ」と呼ばれるようになった背景には、当時の将軍像と大きなギャップがありました。健康で雄弁な将軍を理想とする社会の中で、家定の病弱さや不安定な言動は「愚か者」と受け取られやすかったのです。
有名なエピソードの一つに、家定が政務に興味を示さず、将棋や細工遊びに没頭していたという話があります。特に、将棋の駒作りに熱中し、1日中手元で駒を削り続けていたという逸話は、「政務を放棄して遊んでいる」という否定的なイメージを強めました。
また、会議の場で突然「まんじゅう、まんじゅう」と呟いたとされる話も有名です。このような言動が、「まともに政治を語れない無能な将軍」というレッテルを貼られる原因となりました。しかし、これらのエピソードの多くは後世に誇張された可能性もあり、単純に鵜呑みにするのは危険です。
家定が置かれた時代背景
家定の治世は、まさに幕末の激動期でした。1853年にはアメリカのペリーが黒船で来航し、開国を迫るという大事件が発生します。幕府内部では、開国派と攘夷派が対立し、方針決定が非常に困難になっていました。さらに、各地の大名たちも幕府の権威に疑問を持ち始めており、幕府の統治力は急速に低下していました。
家定はこのような混乱の中、十分に指導力を発揮できなかったため、実質的な政務は大老・井伊直弼ら有力者に委ねられていました。特に井伊直弼は、家定を支える名目で強力な権力を振るい、後に「安政の大獄」などで反対派を弾圧することになります。
家定と篤姫の関係

篤姫(天璋院)
家定の正室となったのが、薩摩藩主・島津斉彬の養女である篤姫(天璋院)です。当初、家定には複数の側室がいたものの、男子をもうけることはできず、将軍家の後継問題が深刻化していました。篤姫との政略結婚は、幕府と有力外様大名との間に新たな結びつきを作るためでもありました。
家定と篤姫の関係は、政略結婚にもかかわらず、比較的良好だったと伝えられています。病弱な家定に対し、篤姫は誠実に寄り添い、精神的な支えとなったといわれています。篤姫の手紙には、家定を「気立てが優しく、心の温かい人」と評する記述もあり、一般に広まった「うつけ」のイメージとは異なる家定の一面をうかがわせます。
家定に対する現代の再評価
現代の歴史研究では、徳川家定に対する評価は見直されつつあります。たしかに、身体的・精神的なハンディキャップを抱えたことは事実ですが、それが即ち「無能」や「うつけ」と結びつくわけではありません。むしろ、病に苦しみながらも幕府の体裁を保つために奮闘した姿に、一定の評価が与えられるようになっています。
また、家定の死後に後継者を巡る争い(将軍継嗣問題)が起きたことを考えると、家定の存在自体が、幕府内部の微妙なバランスを保つために非常に重要だったとも言えます。彼の存在がなければ、幕府崩壊はさらに早まっていた可能性もあるでしょう。
まとめ
徳川家定は、その病弱さゆえに「うつけ」と評されることが多かった人物ですが、実際には厳しい幕末の情勢の中で懸命に生きた将軍でした。家定に対する評価は現代では再考されており、単なる愚か者として片付けることはできません。家定の人生を知ることで、歴史への理解がより深まります。
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