要約
戦国時代、織田信長に仕えた黒人武士・弥助の存在は、多くの歴史ファンにとって謎に満ちた話題です。アフリカ出身とされる彼が、なぜ日本に、そして信長の家臣にまでなったのか。その背景にはイエズス会の布教活動や南蛮文化の影響がありました。弥助の人物像や信長との関係、本能寺の変での動向まで、詳しく紐解きます。
ミホとケンの対話

ケン、弥助って黒人の侍、知ってる?

えっ!? 黒人の侍!? そんなのいたの?

いたんだよ〜!しかもあの織田信長に仕えてたの

え、信長ってあの桶狭間とか本能寺の人でしょ?なんで黒人が?

そこが面白いところ。もともと弥助はイエズス会の宣教師について日本に来たの

イエズス会? えーと、キリスト教の人たち?

そうそう。16世紀、日本にはヨーロッパから宣教師が来てて、そのお供として連れてこられたのが弥助

へぇ〜。でもなんで信長に気に入られたの?

黒い肌を“塗ってる”と思った信長が、体を洗わせたら地肌だった。それに感動して家臣に取り立てたんだって

ちょっとその話、マンガみたいだね!

うん、でも信長ってそういう“異才”を見つけるのが得意だったのよ

じゃあ弥助はちゃんと侍として戦ったの?

そう、ちゃんと武士として扱われて、鎧も着てたって記録があるの

へぇー、カッコいいじゃん!でもその後どうなったの?

本能寺の変のとき、信長と一緒にいたんだよ

マジで!? 信長が明智光秀にやられたあの事件でしょ?

そう。でも弥助は明智側に殺されず、武士じゃないからと命は助けられたの

なんか…切ないけど、生き延びたんだね

その後の記録は不明だけど、外国人としては異例の扱いだったわ

日本に来た理由も、信長に仕えた理由もすごいなぁ…
さらに詳しく

日本に到来したイエズス会宣教師たち
弥助とは?
弥助は、16世紀末に来日した黒人男性で、現在では日本初の黒人侍として知られています。出自は明確ではありませんが、アフリカ東部(エチオピアやモザンビーク)出身とされ、当時のポルトガル商人やイエズス会によって奴隷として連れてこられた可能性があります。やがてヨーロッパでキリスト教に改宗し、イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕えるようになります。
信長との劇的な出会い
弥助が日本に到着したのは1579年頃。日本各地でキリスト教の布教が進む中、彼はヴァリニャーノに随行して織田信長と謁見します。信長は弥助の黒い肌に大変驚き、「身体を洗わせてみよ」と命じたという有名な逸話が『信長公記』に記録されています。肌の色が地肌であると確認した信長は、その希少性と体格の良さに興味を持ち、彼を家臣に迎えました。
侍としての弥助
異例の昇進と待遇
信長は弥助に自邸を与え、正式に武士として刀を帯びることを許可しました。これは、外国人としては極めて異例のことであり、弥助が「織田家の家臣」として認められていたことを示します。また、彼は信長の子・信忠の元にも仕えたとされ、軍事行動にも同行していた可能性があります。
当時の日本人の反応
記録によると、弥助が京都の町を歩くと人々が群がり、その肌の色を一目見ようとしたそうです。「黒い肌」は当時の日本人にとって極めて珍しく、「黒い神」と称された記述もあります。これは、弥助が単なる珍しさではなく、神聖視された可能性もあることを意味しています。
本能寺の変での運命
1582年の本能寺の変では、弥助は信長と共に宿所に滞在していました。明智光秀による急襲の際、信長が自害した後も、弥助は最後まで抵抗したとされています。しかし、捕らえられた際、明智軍の武将は「彼は獣のような存在で日本人ではない」とし、殺さずに南蛮寺へ引き渡したと記録されています。
弥助が残したもの
その後の弥助の消息は不明ですが、彼の存在は戦国時代が国際的だった証として後世に語り継がれています。彼の姿は、今日では映画・アニメ・小説などでも取り上げられ、日本人の歴史観に新たな視点を与えました。
戦国時代と国際交流
戦国時代は決して閉ざされた時代ではありませんでした。ポルトガルやスペインの船が来航し、南蛮貿易やキリスト教の布教活動が活発に行われる中で、日本はヨーロッパやアジア諸国と広く交流していたのです。弥助の存在は、そうした歴史の中に現れた“生きた証拠”ともいえるでしょう。
まとめ
弥助はアフリカ出身の黒人でありながら、織田信長に見出されて家臣となった実在の人物です。戦国時代の日本に黒人の侍がいたという事実は、当時の日本が想像以上に国際的で柔軟な価値観を持っていたことを示しています。信長の革新性、そして弥助の異文化への適応力と信頼関係は、歴史上の特異なエピソードとして非常に興味深いものです。
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