要約
徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、実は当初「将軍になる気がなかった」とされています。聡明で政治にも通じていた慶喜がなぜその座を望まなかったのか?そこには幕府の衰退や政治の混乱、さらには自らの立場を冷静に見つめる姿勢がありました。この記事では、彼の本音と幕末の政局を会話形式で紐解きます。
ミホとケンの対話

ケン、徳川慶喜って知ってる?

あー、最後の将軍でしょ?でもあんまり目立たないよね?

そうそう。でも実はあの人、将軍になりたくなかったんだよ

えっ!? なんで!? 将軍って超すごいポジションじゃん!

そう思うよね。でも当時の幕府ってもうボロボロで…責任が重すぎたの

なるほど…火中の栗を拾いたくなかったってやつ?

まさにそれ!慶喜はめちゃくちゃ頭良かったし、状況もわかってたの

じゃあなんで最終的に将軍になっちゃったの?

周囲の圧力が強かったのと、自分が引き受けなきゃ幕府がもっと混乱するって判断したから

責任感あるんだなぁ…

実際、将軍になってからも“早く政権を返した方が日本のため”って思ってたの

えっ、自分から政権返しちゃったの!?

うん、それが『大政奉還』ってやつ。自分から朝廷に政治の権限を戻したの

なんか…潔いね

でしょ?その判断が、のちの明治維新に繋がっていくんだよ

そっか…でもその後って慶喜どうしてたの?

静岡でひっそり暮らしてたよ。政治からも手を引いて

幕末のラスボスかと思いきや、実は平和主義者だったのかも?

そんな感じだね。自分の立場もちゃんと考えて動ける、冷静な人だったの

めっちゃ考えさせられるな…将軍って、カッコいいだけじゃダメなんだ

うん。時代を読む力と、引き際を知る覚悟。それが慶喜のすごさだね
さらに詳しく

征夷大将軍在任時の徳川慶喜
徳川慶喜とは?
徳川慶喜(よしのぶ)は、江戸幕府15代将軍にして最後の将軍です。聡明で学識が高く、若いころから将来を期待されていました。父・徳川斉昭の影響で、政治改革志向が強く、幕政にも積極的に関わっていました。
なぜ将軍になりたくなかったのか
幕末の幕府は国際的な圧力や内政の混乱で弱体化しており、「将軍になる=泥舟の船長になる」ようなもの。慶喜はその責任の重さを理解しており、自らの政治的能力を温存しつつ、幕府の終焉が近いことを感じ取っていました。
将軍就任とその後
しかし、幕府や一橋派の重臣たちからの強い要請により、慶喜はついに将軍職を受け入れます。将軍としての在任期間はわずか約1年。その間に行った大政奉還は、戦わずして政権を朝廷に返すという歴史的転換点でした。
大政奉還の意義
1867年、慶喜は政権を朝廷に返上。これにより「武士による政権支配」は終わりを告げ、明治政府への移行が始まります。武力での決着を避けようとする、慶喜の“平和的解決”への意思がここに見られます。
晩年の慶喜
明治維新後、慶喜は政治から完全に身を引き、静岡で趣味の写真や狩猟を楽しみながら余生を送りました。明治天皇とも和解し、華族としての待遇を受けながら長生きし、1913年に76歳で亡くなりました。
まとめ
徳川慶喜は将軍としての責任を重く受け止め、あえてその地位を避けようとしました。しかし幕府の未来を思い、最後は自ら将軍職を受け入れ、大政奉還という形で江戸時代の幕を引きました。彼の冷静な判断と平和的な行動は、まさに“知将”の名にふさわしいものでした。
オマケ
AIに、徳川慶喜が実は将軍になりたくないのに嫌々させられたようなイメージで画像を作成してもらうと、こうなりました。
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