実の兄と敵に!? 真田幸村(信繁)と兄・信之が分かれた衝撃の理由

真田信繁(幸村) 戦国時代

要約

真田幸村(信繁)とその兄・真田信之は、戦国時代を代表する名門・真田家の兄弟です。しかし、大坂の陣では兄弟が敵同士として戦場に立つという異例の展開を迎えます。なぜ実の兄弟が戦うことになったのか?そこには父・昌幸の知略、時代の波、そして真田家の存続を賭けた戦略がありました。本記事では兄弟の関係性や決断の背景を会話形式でわかりやすく紹介し、さらに詳しく解説していきます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

真田幸村って聞いたことある?

ケン
ケン

うん、戦国武将でめちゃくちゃ強かった人でしょ?

ミホ
ミホ

そうそう、でも実は“幸村”って本当の名前じゃないの

ケン
ケン

え、そうなの!?

ミホ
ミホ

本名は“真田信繁”っていうの。幸村は後世に有名になった呼び名なんだよ

ケン
ケン

へえ〜!で、その信繁ってお兄さんもいたよね?

ミホ
ミホ

いたよ。兄の名前は“真田信之”。兄弟なのに、敵同士になっちゃったんだ

ケン
ケン

ええ!? 兄弟で戦ったの!? なんでそんなことに…

ミホ
ミホ

それはね、“大坂の陣”っていう戦いがきっかけ

ケン
ケン

あっ、それ知ってる!徳川と豊臣が最後に戦ったやつでしょ?

ミホ
ミホ

うん。で、信繁は豊臣側、信之は徳川側についたの

ケン
ケン

うわ〜、兄弟で完全に分かれてるじゃん…

ミホ
ミホ

しかもその選択、父・真田昌幸の影響もあるのよ

ケン
ケン

どういうこと?

ミホ
ミホ

昌幸は元々、戦国随一の策略家。家を守るために“兄弟を分けて生き残る道”を選んだの

ケン
ケン

なんか悲しいけどカッコイイ…

ミホ
ミホ

戦国時代は、家の存続が最優先だったからね。信之は徳川に、信繁は豊臣に

ケン
ケン

でも敵になっても、お互いを思いやってたんじゃない?

ミホ
ミホ

そうそう!実は、信之は裏で信繁の助命を願ってたりしたのよ

ケン
ケン

うぅ…泣ける。兄弟愛じゃん…

ミホ
ミホ

も信繁は“武士としての覚悟”を持って、大坂で戦い抜いて命を落としたの

ケン
ケン

うわぁ…切ない…。けど、カッコよすぎる

ミホ
ミホ

だからこそ“日本一の兵(ひのもといちのつわもの)”って称えられたのよ

ケン
ケン

信繁も信之も、どっちもスゴイ兄弟だね!

さらに詳しく

真田信繁(幸村)

真田信繁(幸村)肖像画、上田市立博物館所蔵

真田幸村(信繁)とは?

真田信繁(通称:幸村)は、戦国時代後期の武将で、特に「大坂の陣」での活躍が有名です。戦術に優れ、わずかな兵力で徳川軍を翻弄したその勇姿は、後世に「日本一の兵」と讃えられました。名将・真田昌幸の次男として生まれ、父譲りの策略と勇猛さを併せ持った武将です。

兄・真田信之との関係

真田信之は兄であり、家の跡を継いで徳川政権下で生き延びた名君です。父・昌幸と弟・信繁が関ヶ原の戦い後に西軍に加担して改易された際、信之は東軍に属したため真田家の一部を残すことに成功しました。兄弟は異なる道を歩んだものの、信頼と尊敬を抱き続けていたといわれます。

兄弟が“敵”になった背景

1600年の関ヶ原の戦い以降、真田家は分裂する形で存続します。信之は徳川家康の信任を得て家名を守り、信繁と父・昌幸は九度山に配流されました。やがて1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」にて、信繁は豊臣方として参戦。一方、信之は幕府側に与していたため、兄弟は対立する陣営で戦うことになりました。

兄弟愛の逸話

信之は、大坂の陣で弟が討たれた後も、その死を深く悼んだとされます。また、戦いの前には裏で弟の助命を徳川側に願い出たという話も伝わっています。敵として分かれながらも、互いを思い合う絆は絶えなかったのです。

まとめ

真田信繁(幸村)と兄・信之は、戦国時代の動乱の中で家の存続と信念を天秤にかけ、別々の道を歩みました。兄弟が敵として戦った背景には、父・昌幸の策略と時代の流れがありましたが、互いへの尊敬と信頼は最後まで失われませんでした。その生き様は、今もなお多くの人々に感動を与えています。

オマケ

AIに,真田信繁(幸村)と兄・信之が悲しくも敵対関係になってしまったエピソードを元に画像を作成してもらうと、こうなりました。

真田信繁(幸村)、兄・信之

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