要約
紫式部は平安時代を代表する女流作家で、『源氏物語』の作者として知られています。しかし、「紫式部」は本名ではなく、彼女の本名は記録に残っておらず、実際にはわかっていません。この記事では、紫式部という名前の由来や当時の名前の慣習、さらには彼女の人生や作品について、わかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

ケン、紫式部って聞いたことある?

うん!源氏物語を書いた人だよね?

よく知ってるね。でも実は本名はハッキリとはわかってないの

えっ!じゃあ“紫式部”って何なの?

“紫”は源氏物語に出てくる“紫の上”に由来してるの

おぉ〜、じゃあペンネームみたいな感じ?

近いかな!あと“式部”はお父さんの役職名、“式部丞(しきぶのじょう)”からきてるのよ

へえ〜、当時はそうやって呼ばれてたんだね!

そうそう。平安時代の女性は、本名が公にされないのが普通だったの

じゃあ、紫式部さんの本名を知ってる人はいなかったの?

一説には“藤原香子(ふじわらのかおるこ)”とも言われるけど、確証はないの

香子…なんか源氏物語に出てきそうな名前だね

確かにね(笑)でも“藤原”は当時の貴族の姓としては定番だったのよ

ふむふむ、じゃあ“紫式部”ってあだ名みたいなもんか〜

宮廷では家柄や立場で呼び名が決まるから、本名よりも役職名や父親の名前が重視されたの

なるほどね、現代とはだいぶ違うね

うん。でも源氏物語の中で自分のキャラの名前を使われるって、すごくない?

それって、ちょっとカッコいい!

だよね♪ ちなみに彼女は中宮彰子に仕えてたのよ

宮仕えしてたのか〜、じゃあ日記とかも残ってるの?

『紫式部日記』っていうのがあるよ!当時の宮中の様子がわかる貴重な記録なの

うわ〜読んでみたくなってきた!

ぜひぜひ♪ あの時代の女性の感性や社会がリアルにわかるからおすすめだよ
さらに詳しく

紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)
紫式部とは?
紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期に活躍した日本を代表する女性作家であり、『源氏物語』の作者として世界的にも高く評価されています。彼女は貴族・藤原為時(ふじわらのためとき)の娘として生まれ、当時としては珍しく漢文や詩を学び、豊かな教養を身につけました。
彼女の活躍は女性が制限された社会において非常に特異であり、知性と感性を兼ね備えた天才として今なお語り継がれています。
名前の由来と本名の謎
「紫式部」という名前は、実は本名ではなく、後世に付けられた呼称です。「紫」は彼女の代表作『源氏物語』に登場するヒロイン「紫の上」にちなんだものと考えられています。「式部」は彼女の父・藤原為時が務めた官職「式部丞(しきぶのじょう)」に由来します。
当時の宮中では、女性の本名はほとんど記録されることがなく、「誰の娘か」「どの役職の家柄か」といった情報をもとに名前が付けられることが一般的でした。
本名の可能性について
一説によると、紫式部の本名は「藤原香子(ふじわらのかおるこ)」であったとする説もありますが、確たる証拠は存在していません。そのため、現在も本名は不明とされています。
宮中での生活と『紫式部日記』
紫式部は、一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に女房(じょぼう/侍女)として仕えました。このときの宮中生活を記録したものが『紫式部日記』です。この日記には、貴族たちの華やかな生活、儀式、恋愛模様、詩歌のやりとり、そして彼女自身の内面の葛藤が生々しく描かれています。
彼女は決して順風満帆だったわけではなく、他の女房たちからの嫉妬や孤立を感じながらも、自身の文学的才能を発揮し続けた様子がうかがえます。
平安時代の女性と名前の扱い
平安時代の貴族社会では、女性の名前を公にすることは礼儀に反するとされていました。そのため、女性たちは実名ではなく、「○○の娘」「○○の北の方(きたのかた)」といった形で呼ばれていました。紫式部のように、作品や仕える人物にちなんだ名前で後世に知られるようになった例は珍しくありません。
当時のネーミング慣習
例えば、清少納言も本名は不詳で、「清原氏」出身であり、父が「少納言」という役職にあったことに由来します。こうした名付けの慣習は、貴族社会のヒエラルキーや公私の分離の価値観が強かったことを示しています。
まとめ
紫式部という名前は、本名ではなく『源氏物語』の登場人物と父の役職名にちなんだ呼び名です。平安時代の女性は本名が公にされないことが多く、紫式部の本名も定かではありません。しかし、その作品と知性は今もなお、多くの人々を魅了し続けています。
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