要約
聖武天皇は奈良時代に即位した天皇で、在位中になんと7回も都を変えたことで知られます。なぜ天皇が何度も「引っ越し」をしたのか?そこには疫病の流行、政争、天変地異といった混乱、そして仏教への深い信仰が関わっていました。今回は、そんな聖武天皇の遷都の背景や理由を、会話形式でわかりやすく紹介します。
ミホとケンの対話

ケン、聖武天皇って聞いたことある?

うーん、なんとなく名前だけ…。天皇さんだよね?

そうそう、奈良時代の天皇なんだけど、ちょっと変わっててね

変わってる?天皇なのに?

なんとね、在位中に都を7回も引っ越ししてるの

えっ!?そんなに?なんでそんなことに?

いろんな理由があるんだけど、一番は『世の中が不安定だったから』なんだ

不安定って…戦争とか?

戦争というより、疫病や天変地異、飢饉、あと政治のゴタゴタ

なるほど、なんか住みにくそう…

例えば、藤原四兄弟っていう実力者たちが次々に病で亡くなって、聖武天皇は『これは仏の怒りかも』って思ったの

仏の怒り!?おおう…信仰深い感じだね

そう、聖武天皇は仏教にすごく帰依してて、その影響で遷都や大仏造立にもつながるんだよ

えっ、奈良の大仏?あれって聖武天皇の時代!?

そうそう!東大寺の大仏は、国家安泰を願って造られたの

引っ越しと仏教が関係あるなんて意外だな〜

たとえば、恭仁京、紫香楽宮なんかは仏教の影響で建てられた都だったんだよ

え、そんな都あったの!?聞いたことない…

今では跡地しか残ってないけど、当時は真剣に都として考えられてたの

でも何回も引っ越すのって、民衆は大変じゃなかった?

すっごく大変だったと思う!だからこそ、長岡京や平安京みたいに、のちの時代では安定した都づくりが目指されるようになったの

歴史って、前の時代の反省で動いてるんだね…

うん、聖武天皇の苦労があって、後の都づくりが洗練されていったんだよ

じゃあ、聖武天皇って『引っ越しの先駆者』みたいな人かもね!

うまいこと言うね〜!歴史のお引っ越し王だね!
さらに詳しく

「聖武天皇像」鎌倉時代・作者不詳
聖武天皇とは?
聖武天皇(しょうむてんのう、在位724年〜749年)は、奈良時代の中ごろに即位した第45代天皇です。母は藤原不比等の娘・宮子で、藤原氏の強い後ろ盾を受けて即位しました。彼の治世は、仏教を国家の中心に据える大転換期でもありました。
特に注目されるのは、国分寺・国分尼寺の設置、東大寺の大仏(盧舎那仏)造立など、宗教を政治に取り入れた積極的な施策です。聖武天皇の仏教への深い信仰心は、当時の社会不安と密接に関係しています。
なぜ何度も都を移したのか?
聖武天皇は在位中に、恭仁京・難波京・紫香楽宮・平城京など、7回も都を遷すという異例の行動を取りました。
背景1:疫病と天災の流行
735年頃から全国で天然痘が猛威をふるい、多くの民衆や貴族が命を落としました。特に影響が大きかったのは、政権の中心であった藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が次々に亡くなったことです。
この事態を「天の怒り」あるいは「仏の試練」と捉えた聖武天皇は、現世の災厄を断ち切るため、都を移すことで新たな道を切り開こうとしました。
背景2:政治の不安定さ
藤原氏の力が一時的に弱まり、反藤原派との対立が顕在化する中、聖武天皇は政治的な中心地の移動を通じて、勢力バランスの調整や新たな支配体制の構築を図ろうとしました。
遷都にはそうした権力構造の再編という目的も含まれていたと考えられます。
紫香楽宮と大仏への信仰
紫香楽宮(しがらきのみや)は、現在の滋賀県甲賀市にあたる場所で、聖武天皇が新たな都と定めた地です。ここでは大仏建立も始まりましたが、火災や地震などが相次ぎ、都の機能としては短命に終わりました。
しかし、仏教への祈りはやむことなく、最終的に大仏建立の地は再び平城京(奈良)に戻り、東大寺の建立へとつながりました。
鎮護国家思想と聖武天皇
仏教を国の守りとする思想――鎮護国家(ちんごこっか)思想は、聖武天皇の政策に深く根差しています。国ごとに寺を建て、仏の力で災いを鎮めるというこの発想は、後の歴代天皇にも受け継がれていきました。
遷都の意義と後世への影響
聖武天皇の遷都は、「混乱期の迷走」と見ることもできますが、逆に国家と宗教の結びつきを深めた画期的な試みとも言えます。
その後、桓武天皇の時代に都が平安京に移される際には、「永続的な都づくり」が強く意識されました。これは、聖武天皇時代の遷都による教訓が活かされた結果だとも考えられます。
また、東大寺の大仏は現代に至るまで日本の仏教文化の象徴となっており、聖武天皇のビジョンがいかに大きな影響を及ぼしたかを物語っています。
まとめ
聖武天皇は、奈良時代の不安定な社会情勢の中で、仏教を頼りに都を何度も遷すという異例の政策を取りました。その背景には疫病や政争、災害があり、宗教による国家安定を強く求めた結果ともいえます。彼の試みは失敗も多かったものの、後世に影響を与える国家宗教政策の基盤を築きました。
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