要約
韓信は楚漢戦争で数々の戦功を立て、「国士無双」と称された古代中国の天才軍略家です。しかし若い頃は極貧で無職、周囲から見下される存在でした。「股くぐり」の逸話で知られるように、理不尽な侮辱にも耐えた彼は、やがて劉邦に見出され、天下取りの要となる存在に成長します。ですが、その実力があまりに際立っていたため、最終的には劉邦や呂后に恐れられ、非業の死を遂げました。華やかな功績と、切ない最期までを解説します。
ミホとケンの対話

ケン、韓信って知ってる?

あー、名前だけ聞いたことあるかも?中国の…えーっと…三国志の人?

惜しい!三国志よりちょっと前、楚漢戦争の時代の人だよ。劉邦と項羽の戦いの頃!

あ、あの“鴻門の会”の頃だ!

そうそう!韓信は劉邦の部下で、戦術がめちゃくちゃ冴えてたの。でも…若い頃は全然冴えない人だったのよ

え!?どんな感じ?

仕事もなくて、居候してる亭長の家でも冷たくされて、ついにはご飯ももらえなくなるくらい…

うわ、それはキツイ…

でも、そんな彼に無償で食事を与えてくれたおばあさんがいてね。韓信は『いつか必ず恩返しする』って誓ったの

恩返しフラグきた!

しかも、ある時は町の若者に“その剣で俺を刺すか、俺の股をくぐれ”って挑発されて…

えぇ!?で、どうしたの?

ぐっとこらえて、股をくぐったの。周りからはめちゃくちゃ笑われたって

それ…めっちゃ悔しくない?

もちろん。でも彼は『一時の恥を耐えれば、後に名をあげる』って考えたの

それが“韓信の股くぐり”か…深い…

でね、その後いろいろあって、最終的に“国士無双”って言われるようになるの

国士無双って、めっちゃカッコイイ響き!

“この国でただ一人、比べる者がいない”って意味よ。彼の軍略はそれだけズバ抜けてたの

劉邦もびっくりだったんじゃ?

最初は全然信じてなくて、推薦されても無視してたの。でも、重臣の蕭何が『この人逃がしたら私も辞める!』ってまで言ったから、ようやく採用されたの

蕭何、見る目ある!

その後の韓信の戦績はすごいよ。魏、趙、斉、次々と平定していったの

え?一人でそんなに?

うん。特に“背水の陣”って戦法が有名。あえて川を背に布陣して、兵士の退路を断って戦わせたの

こわっ。でも覚悟決まってる…!

そうやって彼はどんどん出世して、最終的には斉王になったの。でも、それが逆に災いを呼ぶの

えっ、どういうこと?

あまりにも力を持ちすぎて、劉邦や呂后に警戒されちゃってね…。最後は“謀反の疑い”をかけられて処刑されちゃったの

えぇぇ…あんなに尽くしたのに…!

まさに“強すぎたがゆえの悲劇”って感じだね

でも、股くぐりの時からずっと我慢して、力をつけて、結果あんなに活躍したのに…

そう、だからこそ今でも“悲劇の名将”として語り継がれているのよ
さらに詳しく

韓信(『晩笑堂竹荘畫傳』)
韓信とは?
韓信(かんしん)は、中国・前漢の初期に活躍した名将であり、「国士無双」と讃えられた天才的な軍略家です。出身地は現在の江蘇省・淮陰。身分の低い家に生まれ、極貧の中で育ち、若い頃はほとんどの人に軽んじられていました。
当時は職にも就けず、他人の家を転々とする居候生活を送り、ついには飯も出してもらえないほどに…。その様子を見かねた老女が、数十日間に渡って彼に食事を与えたという話は有名です。
のちに韓信はこの老女に大金を渡して恩返しします。このエピソードは、彼の義理堅さと人情を大切にする一面を物語っています。
「股くぐり」の逸話
韓信の若い頃のエピソードとして語り継がれるのが、「股くぐりの屈辱」です。
ある日、町の不良が韓信を嘲り、「剣なんか持ってて威張ってるが、どうせ臆病者だろ。刺せないなら俺の股をくぐれ」と言い放ちます。
それに対して韓信は、黙って股をくぐるという選択をします。周囲は大笑いし、侮辱された韓信は人々の嘲笑の的になりました。
しかし、韓信はその時こう考えたのです。
「今ここで剣を抜いても何も得はない。一時の恥は、後の大事を成すための布石だ。」
このエピソードは、中国の故事成語「韓信の股くぐり」として知られ、忍耐と戦略眼の象徴とされています。
「国士無双」の評価
漢王・劉邦(りゅうほう)に仕えることになった韓信ですが、最初はまったく評価されず、単なる「接待係」に過ぎませんでした。
しかし彼の才に気づいたのが、重臣・蕭何(しょうか)です。韓信が脱走しようとした時、蕭何は何も告げずに追いかけ、連れ戻します。
そして、劉邦にこう訴えました。
「韓信は国士無双です。天下を取る気があるなら、この人材を失ってはなりません!」
蕭何の言葉に動かされた劉邦は、ついに韓信を「上将軍」に任命。ここから彼の快進撃が始まります。
韓信の軍略と戦績
魏・趙・斉の平定
韓信は魏を奇襲して素早く制圧。続く趙との戦いでは、兵法上不利とされる「背水の陣」を自ら選び、兵士の退路を断つことで士気を極限まで高めました。結果、趙軍を撃破。
その後、河北地方の斉へと進軍。楚から援軍に来た将軍・龍且(りゅうしょ)を水攻めの奇策で破り、斉王に任命されるまでに至ります。
背水の陣とは?
背水の陣とは、自軍の背後に川や崖など退路のない地形を置く布陣のこと。普通なら逃げ場をなくす愚策とされますが、韓信はそれをあえて実行し、兵の士気を最大限に引き出しました。
「生きる道を断たれれば、人は死に物狂いで戦う」
この韓信の信念は、まさに兵法家としての真髄でした。
功績が恐れに変わった瞬間
韓信の功績はあまりにも華々しく、彼の勢力は一時、漢・楚・斉の三国鼎立のような状態にまで膨れ上がりました。
しかし、それが劉邦や皇后の呂雉(りょち)にとっては“脅威”となっていきます。
最初は楚王に封じられましたが、その後「謀反の疑い」をかけられ、最終的に爵位を奪われ、兵権を失い、淮陰侯に格下げされます。
最期と悲劇
韓信の死は、劉邦が反乱討伐で都を留守にした隙を狙った反乱計画が、事前に呂后と蕭何に察知されたことで破綻したことによるものでした。
蕭何が使者を偽装し、祝賀を名目に韓信を宮中に誘い出すと、そのまま捕縛。劉邦が帰還する前に、未央宮で斬首されてしまいます。
死の間際、韓信は「蒯通(かいとう)の策に従っていれば…」と後悔の言葉を残し、命を絶たれました。
「強すぎる者は恐れられる。そして、恐れはやがて刃となる。」
その生涯は、まさにこの言葉を体現するようなものだったのです。
韓信の残したもの
韓信の死後、劉邦は当初こそ悲しみましたが、彼が「蒯通の策に従えば天下を取れた」と語ったことを聞いて怒り、蒯通の処刑を命じました。しかし、蒯通の堂々たる弁明により命は助けられます。
また、韓信の子孫が生き延びたという伝説もあり、「広西韋氏」は韓信の血筋を継いでいると自称しています。
韓信の物語は今なお、中国だけでなく世界中の歴史好きに語り継がれる、“忠義と野心のはざまで揺れた最強の軍師”の生涯です。
まとめ
韓信は貧しさと屈辱を乗り越え、類いまれな軍才で数々の戦いに勝利しました。その才能ゆえに「国士無双」と称されましたが、あまりに強すぎたことで劉邦らに警戒され、最期は非業の死を遂げました。彼の生涯は、出世と忠義、そして嫉妬と猜疑の渦巻く歴史の縮図とも言えるでしょう。
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