失脚した本多正純は無実だった?秀忠暗殺説の宇都宮城釣天井事件とは

宇都宮城釣天井事件 江戸時代

要約

江戸時代初期、徳川家康の側近として重用された本多正純が、「宇都宮城に釣天井を仕掛けて将軍秀忠を暗殺しようとした」という嫌疑により失脚・改易された事件が「宇都宮城釣天井事件」です。しかし、この釣天井は実際には存在しなかったとされ、事件は冤罪だった可能性が高いと見られています。本記事では、この事件の背景や権力争い、冤罪説の根拠を深掘りしていきます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ケン、江戸時代の冤罪事件って聞いたことある?

ケン
ケン

えー、冤罪? なんか今っぽい言葉だけど、江戸時代にもあったの?

ミホ
ミホ

あるのよ。その中でも有名なのが『宇都宮城釣天井事件』ってやつ

ケン
ケン

うつのみやじょう…つりてんじょう? なんか怪獣の名前みたい!

ミホ
ミホ

ふふ、名前は派手だけど、すごく深刻な事件なの

ケン
ケン

どんな話なの? 釣天井って何??

ミホ
ミホ

“釣天井”っていうのは、上から天井が落ちてくる暗殺トラップのこと

ケン
ケン

えっ、そんなの本当にあったの!? 忍者の罠みたい!

ミホ
ミホ

でも実はね、それ“仕掛けがなかった”って話もあるの

ケン
ケン

…え?ないのに事件ってどういうこと?

ミホ
ミホ

冤罪なの。本多正純っていう大名が、将軍・徳川秀忠を暗殺しようとしたって疑いをかけられてね

ケン
ケン

マジで!? じゃあ正純って悪くなかったの?

ミホ
ミホ

少なくとも証拠はなかったの。将軍・徳川秀忠も実は“仕掛けなんてなかった”って調査でわかってたのよ

ケン
ケン

なんでそんな話が広まったの?

ミホ
ミホ

当時の政治のせいかな。家康が死んで、秀忠とその側近たちが権力を握り始めてたの

ケン
ケン

ってことは…正純は邪魔だったのか!

ミホ
ミホ

その通り!特に土井利勝とか加納御前あたりが怪しいとされてるわ

ケン
ケン

え?加納御前って誰?

ミホ
ミホ

秀忠の姉。孫が正純の“左遷で得した人”だったから恨みがあったって説もあるの

ケン
ケン

それって陰謀じゃん…

ミホ
ミホ

うん。しかも秀忠は“奥さんが病気”って言って宇都宮に泊まる予定をキャンセルしてるのよ

ケン
ケン

えっ、じゃあ初めから疑ってたってこと!?

ミホ
ミホ

そうとも言えるね。その後、11か条の罪状が突きつけられるんだけど…

ケン
ケン

…でた!よくあるやつ!

ミホ
ミホ

しかも正純はちゃんと反論してる。でも追加の3か条だけは答えられなかったの

ケン
ケン

えー、なにその追加問題!

ミホ
ミホ

これが決定打になっちゃったの。最終的に流罪になって、秋田の横手で亡くなるの

ケン
ケン

ああ…なんかかわいそうすぎる…

ミホ
ミホ

しかも講談や歌舞伎では“釣天井で暗殺を企てた悪人”として描かれたから…

ケン
ケン

完全に冤罪イメージが定着しちゃったんだね

ミホ
ミホ

でも近年は“証拠もなく、権力争いの犠牲者だった”って再評価が進んでるのよ

さらに詳しく

宇都宮城釣天井事件とは?

江戸時代初期、元和8年(1622年)に起こったのが、いわゆる「宇都宮城釣天井事件」です。これは、当時宇都宮藩主であり、幕府年寄(後の老中)でもあった本多正純が、第2代将軍・徳川秀忠を暗殺しようとしたという嫌疑を受けた事件です。

その方法が「釣天井」、つまり将軍の寝所の上に仕掛けられた天井が落下するというトラップだったとされました。しかし、この事件には明確な証拠が一切存在せず、しかも実際に「釣天井」は城内に確認されなかったという記録が残っています。

つまり、この事件は冤罪だったとする説が非常に有力なのです。

事件の背景と本多正純の立場

父・本多正信の影響

本多正純の父・本多正信は、徳川家康の懐刀として知られた有力家臣であり、晩年の家康にとって「自分の友」とまで呼ばれた存在でした。正純もまた、その父の後を継ぎ、家康の政治補佐として重要な役割を果たしていました。

二元政治と正純の昇進

家康が将軍職を退き、秀忠に譲ってからの時期、政治の実権は家康(駿府)秀忠(江戸)に分かれる「二元政治」となります。この時期、正純は駿府の家康を補佐する役割を担い、将軍家における絶大な影響力を持つようになります。

しかし、家康と正信が相次いで死去すると、正純は秀忠政権下の異物として徐々に煙たがられるようになります。

事件の経過と改易

釣天井の嫌疑

元和8年、秀忠が日光東照宮への参拝を終えた後、宇都宮城に宿泊する予定でした。正純は御成りに備え、御成御殿の整備などを進めていましたが、突然「御台所が病気」との理由で、秀忠は宇都宮城を素通りし、宿泊先を壬生城に変更します。

この直後、「釣天井の仕掛けがあった」という密告が入ります。さらに後日、出羽国山形に赴任中の正純に、幕府側から11か条の罪状が突きつけられました。

罪状の内容と追加疑惑

11か条には、無断の石垣修築、鉄砲の製造、根来同心の処罰などが含まれていました。正純はそれらに対し明快に回答しましたが、さらに3か条の追及(抜け穴工事、鉄砲の無断購入、処分命令違反)については、うまく説明できなかったとされています。

最終的な処分

当初は「先代からの忠勤」により、出羽由利郡に5万5千石を与えるという処置がとられましたが、正純がこれを固辞したため、本多家は改易。正純は秋田・横手に流罪となり、最期は幽閉のまま73歳で没しました。

事件の本質は冤罪か?

秀忠の“個別説明”という異例

通常、家臣の改易などは諸大名を江戸城に集めて一斉に伝達されます。しかしこの事件では、秀忠が諸大名一人ひとりに説明したという異例の対応が取られました。

このことからも、事件の正当性に疑問があったことがうかがえます。細川忠利など複数の大名も「日頃の奉公が悪かった」という曖昧な理由であることに困惑しています。

陰謀説の浮上

冤罪説の根拠としてしばしば語られるのが、正純の政敵たちによる陰謀です。特に以下の人物の動向が注目されています。

  • 土井利勝: 秀忠の側近で、正純と激しく対立
  • 加納御前: 孫の奥平忠昌が正純の加増で左遷されたことへの恨み
  • 大久保家: 正純が改易に関わったとされる忠隣の一族が敵視

民話と講談による伝承

釣天井事件は、江戸時代以降、講談や芝居、歌舞伎の題材として人気を博しました。さらには、悲恋を絡めた民話として宇都宮地方に残されています。

例として、大工の青年が恋人に吊り天井の図面を託し、密告の末に将軍の命が救われた、という物語が語られています。

ただし、これらは史実とは異なる創作であり、釣天井が実在したという証拠は見つかっていません。

再評価と歴史の教訓

現代では、本多正純は政治闘争の犠牲者だったとする見方が定着しつつあります。釣天井事件は、証拠なきままの断罪がいかに理不尽で危険かを教えてくれる、歴史的な冤罪事件として再検討されるべきものです。

まとめ

宇都宮城釣天井事件

宇都宮城釣天井事件は、実際には存在しない仕掛けを理由に、本多正純が冤罪で失脚させられた政治事件です。将軍・秀忠をめぐる権力争いと旧幕閣の排除、個人的恨みが複雑に絡み、事件は仕組まれた疑いが濃厚です。後世に残る講談や民話の影響で、「悪役」とされた正純ですが、近年は再評価が進んでいます。

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