実は架空の人物?隻眼の天才軍師・山本勘助の驚きの真実とは

山本勘助 戦国時代

要約

山本勘助は、武田信玄に仕えた天才軍師として広く知られていますが、実在性については長年疑問視されてきました。主な出典である『甲陽軍鑑』は創作の要素が強く、史実としての裏付けに乏しいため、勘助は架空の人物であるという見方も根強く存在します。本記事では、山本勘助の実像とその虚構性について、歴史資料や近年の研究成果をもとに紐解いていきます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねぇケン、山本勘助って知ってる?

ケン
ケン

あー、武田信玄の軍師でしょ?めっちゃ有名な人じゃん!

ミホ
ミホ

そうだね。でも実は、その“有名な軍師”って、本当にいたかどうか分からないの

ケン
ケン

えっ!? じゃあ、山本勘助って実は架空の人物ってこと?

ミホ
ミホ

うん。勘助の存在は主に『甲陽軍鑑』っていう軍記物に登場するんだけど、それ以外の史料にはほとんど出てこないのよ

ケン
ケン

それって、歴史の教科書に載っててもウソの可能性があるってこと?

ミホ
ミホ

教科書には載ってないけど、小説やドラマでは“信玄の天才軍師”としてめちゃくちゃ人気。だけど、そのイメージの元がほぼ軍記物っていうのがポイント

ケン
ケン

じゃあ『甲陽軍鑑』ってそんなに信用できないの?

ミホ
ミホ

うーん、軍学の教材としては使われたけど、史料としては“創作っぽい”って昔から批判されてたの

ケン
ケン

なるほど…でも、じゃあどうして“いなかったかも”って分かってきたの?

ミホ
ミホ

1969年に“山本菅助”って人物の文書が北海道で見つかって、それが勘助と同一人物じゃないかって注目されたの

ケン
ケン

えっ、文書が出てきたなら実在してたんじゃないの?

ミホ
ミホ

その文書は本物って分かったけど、“山本菅助”と“軍師山本勘助”が同一人物かどうかは、はっきりしないのよ

ケン
ケン

うーん、どこまでが本当で、どこからが作り話か、わかんないね

ミホ
ミホ

まさにそれ。江戸時代の講談や浄瑠璃、小説でどんどん美化されて、“隻眼の天才軍師”ってキャラができあがっちゃった

ケン
ケン

信玄の参謀とかって全部ウソだったの?

ミホ
ミホ

信玄の家臣に“菅助”って人はいたかもしれない。でも『川中島の戦いで活躍して啄木鳥戦法を考えた軍師』っていうのは、後世の創作って考えられてるの

ケン
ケン

そっかー。じゃあ『山勘』って言葉もウソから生まれたの?

ミホ
ミホ

“山勘”って言葉が山本勘助由来って話もあるけど、これも俗説の可能性が高いわね

ケン
ケン

なんか、夢が崩れるなぁ…

ミホ
ミホ

でもね、歴史って“事実”と“伝説”の境界があるから面白いのよ

さらに詳しく

山本勘助

山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)

山本勘助とは?

山本勘助(やまもとかんすけ)は、戦国時代の武田信玄の軍師として知られる人物です。
しかし、その実像は長らく議論の的となってきました。
その名が初めて広く知られるようになったのは、江戸時代初期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』においてでした。

『甲陽軍鑑』では、勘助は奇抜な軍略と築城術の名手、そして隻眼・足が不自由という異形の姿ながら、信玄に重用された名軍師として描かれています。
しかし、同時代の史料には彼の名がほとんど見られず、創作された人物像ではないかという疑念が近代以降に高まりました。

勘助の「架空説」の根拠

出典の信頼性

勘助の活躍の大部分は『甲陽軍鑑』に依拠しています。
この書物は高坂弾正(高坂昌信)による回想という体裁をとっていますが、実際には軍学者・小幡景憲が編纂したと考えられており、創作性が強いとされます。

元禄年間には、勘助の子孫を名乗る僧が自らの父の話を脚色し、それが『甲陽軍鑑』の元になったという証言も登場。
また、軍記物の通例として、忠義や知略を強調するために人物像が誇張される傾向があり、“天才軍師・勘助”は虚構の可能性が高いとされてきました。

実在を裏付ける文書の発見

市河家文書の登場

1969年、北海道釧路市の市河家に伝わる古文書の中に、「山本菅助」の名が記された書状が発見され、信濃史料編纂室により真物と認定されました。
これにより、勘助の実在に新たな光が当てられることとなります。

真下家・沼津山本家文書

さらに2008年、群馬県の真下家所蔵文書や静岡県沼津市の山本家文書の中から、「山本菅助」宛ての武田晴信書状などが相次いで発見されました。
これらの資料により、「菅助」という名の人物が武田家の家臣として実在し、しかも信玄に近い立場だった可能性が高まったのです。

特に注目されるのは、これらの家譜に記された法号「道鬼」で、『甲陽軍鑑』に登場する勘助の法号と一致していたことです。
また、子孫たちも初代「菅助」を“武田信玄の家臣で、道鬼と号した山本勘助”と認識していた形跡が残されています。

評価の分かれる人物像

一方で、これらの文書が発見された後も、歴史学界では慎重な見解が多く見られます。
たしかに「山本菅助」という人物の実在は文書で裏付けられましたが、それが『甲陽軍鑑』に描かれるような奇策を弄する軍師・勘助と完全に一致する証拠はないからです。

つまり、実在の人物に後世のフィクションが合成されて、伝説の軍師像が作り上げられたというのが、現代の研究者の多くが取る立場です。

結論としての見方

今日では、「山本勘助=山本菅助」は同一人物であった可能性が高いとされつつも、『甲陽軍鑑』に描かれる“天才軍師”像は創作であるというのが通説となっています。
それでも、フィクションとしての山本勘助像は、江戸から現代に至るまで多くの人々に影響を与え続けており、歴史と文学・芸能の境界に立つ象徴的存在といえます。

まとめ

山本勘助

山本勘助は、武田信玄に仕えた軍師として知られる人物ですが、その実在性は『甲陽軍鑑』の創作に基づくものとされ、長年疑問視されてきました。近年の文書発見によって「山本菅助」という人物の実在は確認されつつありますが、名軍師としての活躍は後世の脚色によるものであると考えられています。実在と虚構のはざまで語られる勘助像は、歴史をより深く理解する手がかりともいえます。

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