生麦事件が引き金に!? 日本とイギリスが衝突したヤバすぎる戦争の真実

生麦事件 幕末

要約

1862年に発生した生麦事件は、薩摩藩の大名行列に無礼を働いたイギリス人を藩士が殺傷した事件で、幕末最大の外交問題の一つとなりました。この事件をきっかけに、翌1863年には薩摩藩とイギリスの間で「薩英戦争」が勃発。わずか3日間の戦闘ながら、双方に大きな被害を出し、結果的には和解と友好の契機ともなりました。今回は、幕末の日本と世界の接点となったこの出来事を詳しく紐解きます。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねぇケン、生麦事件って聞いたことある?

ケン
ケン

うーん…生麦?おにぎりの具かと思った…

ミホ
ミホ

天然ね(笑)。生麦事件っていうのは、幕末に起きた大事件なのよ。外国人が殺されちゃって、薩摩藩とイギリスが戦争にまで発展したの

ケン
ケン

え!? 日本とイギリスが戦争したの!? 初耳だよ!

ミホ
ミホ

そう、1862年に生麦村で薩摩藩の大名行列を無遠慮に通ろうとしたイギリス人が斬りつけられたの。これが“生麦事件”

ケン
ケン

えー、なんで斬っちゃったの?話し合いじゃダメだったの?

ミホ
ミホ

当時は『尊王攘夷』が盛んで、外国人を敵視する空気が強かったの。それに大名行列を乱すのは日本でも重罪だったから、藩士たちは“当然の処罰”だと思ってたみたい

ケン
ケン

外国人にとってはルールがわからなかったんだね…

ミホ
ミホ

そう、誤解も大きかったわ。結果、1人が死亡、2人が重傷。イギリスはもちろん激怒

ケン
ケン

そりゃ怒るよね!それで戦争に?

ミホ
ミホ

すぐじゃないの。最初は幕府が10万ポンドの賠償金を払ってなんとか交渉したけど、薩摩藩は犯人を差し出さなかったの

ケン
ケン

なんで?謝ればいいのに…

ミホ
ミホ

それが“主権”を守るってことなの。薩摩藩は独自の軍備と誇りがあって、イギリスの要求を“圧力”と見なしたのね

ケン
ケン

え…強気すぎない!? 相手はイギリスだよ!?

ミホ
ミホ

そう思うでしょ?でも薩摩も武装して、鹿児島湾でイギリス艦隊を迎え撃ったの。これが1863年の“薩英戦争”

ケン
ケン

うわ、本当に戦争に…それでどうなったの?

ミホ
ミホ

両軍に大きな被害が出たけど、どちらも決定打はなく、3日で終戦。後に和解して、むしろイギリスと薩摩は仲良くなるの

ケン
ケン

えっ、そんな展開あり!? 仲良くなるなんて意外!

ミホ
ミホ

戦って相手を知ったからこそ、互いを尊重するようになったの。薩摩はこの戦いで近代化の必要性も痛感したわ

ケン
ケン

つまり、ケンカしてわかり合ったってことかぁ…

ミホ
ミホ

そうそう。これがきっかけで薩摩はイギリスから軍艦や技術を導入し、明治維新の原動力にもなっていくのよ

ケン
ケン

すごいなあ、生麦事件が日本の未来を変えたんだね

さらに詳しく

生麦事件

『生麦之発殺』(早川松山画)

生麦事件とは

1862年9月14日(文久2年8月21日)、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で、薩摩藩主の父・島津久光の大名行列が通行していたところ、騎馬のイギリス人4名が行列に割って入る形で遭遇しました。彼らは行列の規律を理解せず、道を譲るどころか中を通り抜けようとしたため、これを無礼と見なした薩摩藩士らが抜刀して斬りかかり、1名が死亡、2名が重傷を負いました。

この事件の最大の問題は、外国人居留地の外で、外国人が殺傷されたことにあります。当時の日本は不平等条約により、外国人に治外法権が認められており、本来であれば日本の法で裁くことができませんでした。しかし、藩士たちは「攘夷思想」に基づき行動し、行列を乱す者は誰であれ処罰すべきだと考えていたのです。

なぜ薩摩とイギリスが戦争に?

事件後、イギリスは幕府に謝罪と10万ポンドの賠償を要求し、幕府はこれに応じました。しかし、実行犯の処罰とさらなる賠償(2万5千ポンド)を薩摩藩に要求したところ、薩摩は主権を盾に拒否しました。薩摩側は「事件の責任はない」「犯人は不明」「幕府が勝手に払った金は関係ない」と主張し、武力衝突の気配が高まります

これに対し、イギリスの東インド艦隊司令官オーガスタス・キューパー少将が指揮する7隻の艦隊が鹿児島湾に進出し、圧力をかけますが、薩摩側は屈しませんでした。

薩英戦争の経過

艦隊の進入と交渉決裂

1863年8月15日、イギリス艦隊は鹿児島湾に入り、蒸気船の拿捕を行いました。これを「海賊行為」と見なした薩摩側は砲撃を開始。これが薩英戦争の勃発です。

3日間にわたる激戦

薩英戦争

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘


薩摩側は約89門の大砲を持つ7つの砲台を配置し、英艦隊に応戦しました。最新鋭のアームストロング砲を装備したイギリス艦隊との砲撃戦は激しく、市街地の約10分の1が焼失し、集成館や民家も壊滅。しかし、薩摩側も善戦し、旗艦「ユーライアラス」の艦長と副長を戦死させるなど、大きな被害を与えました。

英艦「レースホース」は座礁し、艦砲射撃による火災で多くの建物が焼失。市民にも犠牲が出ましたが、薩摩の勇敢な抵抗は高く評価されることになります。

講和と関係改善

戦闘はわずか3日間で終結。イギリスは戦果を挙げたものの、薩摩の武力と覚悟を認め、交渉に入ります。10月5日に横浜で講和が成立し、薩摩は幕府から借りた金で2万5000ポンドの賠償を支払うことで解決します。犯人の引き渡しは「逃亡中」として免除されました。

この講和を通じて、イギリスは薩摩藩を高く評価し、後に薩摩がイギリスから軍艦や技術を導入する礎となります。2年後には英公使パークスが薩摩を訪問し、関係はさらに深まりました。

薩英戦争の意義

この戦争は、日本が近代国家として自立する必要性を痛感した転換点です。薩摩藩は攘夷から開国へと方針を転じ、後の明治維新の原動力となる準備を進めていきます。また、イギリス側も強硬な外交から、日本理解と連携を重視する政策に転じていきました。

3日間の小規模な戦争ながら、日本と世界が向き合った最初の真剣な衝突であり、互いの国の価値観を知る契機となりました。

まとめ

生麦事件

生麦事件は、幕末の日本における外交と国内情勢が交錯した事件でした。尊王攘夷という思想のもと、無礼とされた外国人を斬ったことが、ついには薩摩とイギリスとの戦争を招くことになります。薩英戦争は短期間でしたが、薩摩に近代化と開国の必要性を痛感させる契機となり、結果としてイギリスとの友好を深める展開に至りました。この一連の流れは、日本の近代史において非常に重要な転換点となったのです。

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