要約
山中鹿介幸盛は、戦国時代末期に活躍した武将であり、尼子氏の再興に命をかけた忠義の人として知られます。幼少期から武勇に優れ「山陰の麒麟児」と称され、数々の戦場で一騎討ちを制する豪傑でした。尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後も、その再興を諦めず三度にわたる再興運動を展開。彼の代名詞ともなった「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の逸話や、最後に見せた忠誠と悲劇的な最期は、多くの人々の心に残る伝説となっています。
ミホとケンの対話

ケン、“山陰の麒麟児”って聞いたことある?

えー、なんか強そうな響きだけど…馬の名前?

違う違う(笑)、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)っていう、戦国時代の武将の異名だよ!

あっ、聞いたことあるかも。“七難八苦を与えたまえ”って祈った人でしょ?

そう!それが鹿介の代名詞的な逸話なの。主君・尼子家を再興するために、あえて苦難の道を選んだ忠義の人なのよ

そんなセリフ、普通は絶対言わないよね。なんでそこまでして尼子家を助けたの?

もともと鹿介は尼子家の家臣で、幼い頃から戦場で活躍してたの。13歳で敵の首を取るほどの腕前だったのよ

13歳って中学生だよ!? すごすぎ!

16歳で一騎討ちで豪傑・菊池音八を討ち取ったことで名を上げたの。彼の武勇は敵味方問わず評価されてたわ

でも、尼子家って途中で毛利氏に滅ぼされちゃうんだよね?

そう。鹿介はそのあとも尼子家再興を目指して三度も挙兵して戦ったの

三度も!? それってかなり執念深くない?

執念っていうより、忠義よね。主君の尼子勝久を見つけ出して、彼を擁立して全国を転戦して回ったのよ

すごいけど、負けたときとか逃げるときってどうしてたの?

例えば布部山の戦いで敗れたときは、最後まで殿(しんがり)を務めて部下を逃してから退いたの。そういう姿にみんな心を打たれるの

あー、そういうとこが“忠義の人”って言われるんだね

うん。それに捕まっても主君をかばって切腹させないように立ち回ったり、脱出したりもしてるのよ

うわ…忠誠心がすごい…。でも最後はどうなったの?

最後は織田信長の支援を得て尼子再興の拠点・上月城に籠城してたけど、毛利軍に包囲されて落城し、捕らえられたの

助けられなかったの?

秀吉が援軍に行ったけど、信長の命令で撤退…。その後、鹿介は護送中に毛利方に暗殺されちゃうの

えっ…そんな…最後が切なすぎる…

そうなの。でも、その忠義と武勇は後世の人々に語り継がれて、“忠臣の鑑”とされてるのよ
さらに詳しく

山中鹿介(落合芳幾画『太平記英勇伝 三十六 山中鹿之助幸盛』東京都立図書館所蔵)
山中鹿介とは?
山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代末期に出雲国(現在の島根県)を拠点とした大名、尼子氏の家臣として知られています。
「山陰の麒麟児」と呼ばれるほどの若き英傑であり、その武勇は8歳で敵を討ち、13歳で首級を挙げるなど、少年期から群を抜いていました。
彼は「尼子三傑」「尼子十勇士」の筆頭とされ、数々の戦場で一騎討ちを制して名を上げました。特に16歳で豪傑・菊池音八を討ち取った一騎討ちは、鹿介の武名を決定づけるものでした。
主君・尼子家への忠義
鹿介の人生を語る上で外せないのが、滅びた主家・尼子氏の再興に命を捧げた忠誠心です。
永禄9年(1566年)、毛利元就により尼子義久が降伏し尼子家は一時滅亡しますが、鹿介は諦めず、尼子誠久の遺児である尼子勝久を還俗させ、再興の旗を挙げます。
この時の逸話が有名な「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という祈りです。
三度の尼子再興運動
鹿介はその後、生涯にわたり三度にわたる尼子再興運動を展開します。
第一次再興運動(1569年~1571年)
出雲に上陸し、旧尼子家臣や国人衆をまとめて末次城を拠点に毛利軍と交戦。16城を奪回し、最大6000余りの兵力を誇る勢力となりました。
しかし1570年の布部山の戦いで敗北し、以後衰退。最終的に新山城も失陥し、鹿介は捕らえられるも脱出に成功します。
第二次再興運動(1573年~1576年)
因幡へ進出し、鳥取城を奪取するも、山名豊国の裏切りで再び城を失います。
拠点を若桜鬼ヶ城へ移し再起を図りますが、支援勢力の衰退と毛利の大軍に押され、因幡から撤退せざるを得なくなります。
第三次再興運動(1576年~1578年)
織田信長に拝謁し、その支援を受けて上月城に入城。ここを最後の拠点として毛利軍と激突しますが、信長の命令で秀吉が救援を断念し、孤立無援の中で上月城は降伏。
鹿介は人質として捕らえられ、護送中の阿井の渡し(現・岡山県高梁市)で毛利方に暗殺され、波乱に満ちた生涯を閉じます。
名言「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
この言葉は、鹿介が再興に挑む決意を三日月に祈ったものであり、あえて困難の道を選ぶ覚悟を表したものです。
江戸時代には忠義の武将として講談や教科書に取り上げられ、現代でも“忠義の象徴”として広く知られています。
後世に与えた影響
鹿介の死後、彼を慕う人々は各地に墓や供養塔を建て、彼の忠義の精神を讃えました。特に息子とされる山中幸元は商人となり、鴻池財閥の始祖となったという伝承も残っています。
また、鹿介を主君と仰いだ亀井茲矩はその志を受け継ぎ、のちに津和野藩を治める大名となりました。
鹿介の名は、敗者の中にあっても高潔な武士道精神を貫いた英雄として、今も多くの人の心に刻まれています。
まとめ
山陰の麒麟児と称された山中鹿介は、滅びた主家・尼子氏の再興に生涯を捧げた忠義の武将でした。幾多の困難に立ち向かい、何度敗れても諦めずに挙兵し続けた姿は、戦国武将の中でも特異な存在です。その潔くも哀しい最期、そして「七難八苦を与えたまえ」という祈りは、忠義と誠の象徴として現代まで語り継がれています。
コメント