要約
聖徳太子は日本史における有名人物ですが、実は「聖徳太子」という呼び名は後世につけられた称号であり、生前には別の名前で知られていました。本記事では、彼の本名「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」をはじめとするさまざまな別名や、その由来について紹介しながら、飛鳥時代の政治や宗教との関わりもわかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

ねぇケン、聖徳太子って本当の名前知ってる?

え、聖徳太子じゃないの!? え、あだ名的な?

そうそう、実は“聖徳太子”って死後につけられた称号なの

えー!? じゃあ、生きてた時はなんて呼ばれてたの?

厩戸皇子(うまやどのおうじ)』って呼ばれてたのよ

うま…やど…? 馬の宿? なんか旅館みたい

うふふ、実は馬小屋で生まれたからって言われてるの

え、それってキリスト的な伝説?

ちょっと似てるかもね。でもこれは日本の話

でもなんで“聖徳太子”になったの?

政治や仏教に貢献したことから、後の人が“徳が高い”って意味で付けたの

なるほどー。じゃあ他にも名前あるの?

あるよ。『上宮太子(じょうぐうたいし)』とか『豊聡耳八重言(とよとみみのやえごと)』とか

え、ちょ、ちょっと待って、耳が八重!?

八重言=たくさんの話を同時に聞き分ける、って伝説ね

あー!あの“十人の話を同時に聞ける”ってやつか!

そうそう、それが“聡耳(そうじ)”=耳が賢いって意味になるの

すごい、耳も徳もすごいんだ…!

他にも『厩戸王』とか『豊耳皇子』とか記録によって呼び名が違うの

まるで芸名いっぱいあるタレントみたいだね

うまいこと言うね!でもその分、どれが本当なのかは謎も多いのよ

でも“聖徳太子”って名前、やっぱりカッコいい!

うん、だから今もその名で有名なの。だけど、彼の正体はもっと深いんだよ
さらに詳しく

聖徳太子の肖像が描かれた一万円札
聖徳太子とは?
聖徳太子(574年〜622年)は、飛鳥時代に活躍した皇族で、日本最初の女性天皇である推古天皇の摂政として知られています。日本における仏教の普及、十七条憲法の制定、冠位十二階制度の導入など、数々の政治改革を行った功績から、後世で「聖徳太子」という称号が与えられました。
「聖徳太子」という名前はいつから?
現在広く知られている「聖徳太子」という名前は、死後に付けられた尊称です。奈良時代以降に用いられるようになり、正確には太子が亡くなってから100年以上後に文献で確認されるようになります。生前に「聖徳太子」と呼ばれていた記録はなく、当時は主に「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と称されていました。
多すぎる!? 聖徳太子の別名たち
聖徳太子には複数の別名・呼称があり、それぞれが異なる伝承や文脈から生まれたと考えられます。
厩戸皇子(うまやどのおうじ)
出生地が馬屋のそばだったという伝説から名づけられたとされます。日本書紀でもこの名で記述されており、生前の公式な呼び名です。
豊聡耳八重言(とよとみみのやえごと)
「十人の話を同時に聞き分けた」という逸話に由来する名前です。聡明な聴力を表すために、「豊かな耳」「八重の言葉を理解する者」といった意味が込められています。
上宮太子(じょうぐうたいし)
上宮(かみのみや)という宮殿に住んでいたことからこう呼ばれました。宗教的な教えを説く文書ではこの名がよく使われています。
その他の呼称
他にも「豊耳皇子」「厩戸王」「厩戸皇太子」など、資料や文献ごとに異なる名称が登場します。これらは地域差や記述者の視点により違いが生まれたものとされています。
なぜこんなに名前があるのか?
これほどまでに多くの名前が存在する背景には、聖徳太子という人物が後世に神格化された存在であることが関係しています。彼の実績に加え、宗教的・思想的な意味合いが多分に含まれることで、時代を経るごとに多様な名前とイメージが付与されていったのです。
実像と伝説のはざまで
近年では、「聖徳太子は実在しなかったのでは?」という学説も存在します。これは複数の人物の功績が後に一人に集約された可能性を示すもので、神格化と創作の影響が強いことが指摘されています。
しかしながら、聖徳太子という存在が日本文化と制度の基盤において重要な役割を果たしたという評価は、今も多くの歴史学者に支持されています。
まとめ
聖徳太子は、生前には「厩戸皇子」として知られており、「聖徳太子」という名は死後に称された敬称です。彼には複数の別名があり、それぞれに意味や背景があります。その多様な呼び名からは、彼がいかに多くの側面を持つ人物として評価され、また伝説化されてきたかがうかがえます。
コメント