要約
福島正則は、賤ヶ岳の七本槍や関ヶ原の戦いで活躍した名将であり、江戸幕府成立後は広島藩主として50万石を領有する大名でした。しかし、幕府の命令に背いて城の修繕を無断で行ったことを理由に、突如改易処分を受け、信濃高井野藩へと減封されてしまいます。表向きの理由は「武家諸法度違反」でしたが、その背後には幕府の強まる支配体制と福島正則の性格・立場の危うさが影を落としていました。本記事では、そんな正則の領地没収の経緯と背景を詳しく紐解いていきます。
ミホとケンの対話

ねぇケン、福島正則って知ってる?

うーん、聞いたことあるけど…戦国時代の武将?

そうそう!賤ヶ岳の七本槍の一人で、秀吉の家来だったんだよ。

へぇ、じゃあ豊臣家の超エリートってこと?

そうだね。関ヶ原の戦いでは徳川側について戦って、広島50万石の大名になったの。

えっ、50万石ってすごいじゃん!それだけ活躍してたら、ずっと安泰だったの?

それがね、全然そんなことなかったんだよ…

えっ、まさか失脚とか?

うん、実は領地を全部取り上げられて、信濃の山奥に飛ばされちゃったの。

えぇ!? どうしてそんなことに!? 戦で負けたとか?

戦では勝ってたよ。でも問題は、江戸時代に入ってからだったの。

なんだろう…何かやらかしたの?

正則は広島城が台風で壊れたから、幕府の許可を待たずに修理しちゃったの。それが“武家諸法度違反”ってことになってしまったの。

え、でも城って壊れたら直すもんじゃないの?

普通はそうだけど、当時の幕府は“勝手に修理すると謀反の疑いがある”って警戒してたのよ。

へぇ…戦の世界から、完全にお上の時代になったって感じかぁ。

そう。しかも正則は、昔から豊臣家に近かったから、幕府からすると危険人物に見えたのかもしれないね。

それって、修理はきっかけで、本当は“お前を潰したい”って思われてたのかな…

たぶんそうだね。しかも“修理分を全部壊せ”って言われたのに、本丸だけ壊して他はそのままだったのもまずかった。

あー…それで“命令に従ってない”ってことか。

そうなの。幕府も一度は許そうとしたけど、態度の悪さとかいろいろ重なって、ついに改易が決定したの。

なんか…言いがかりっぽいけど、それでも逆らえなかったんだね。

うん。結局、50万石からたった4万5千石の山奥へ…。家臣たちもすごく苦労したみたい。

活躍したのに報われない人生だったんだなぁ…

でも、最後まで豊臣家への義理を捨てなかったのはすごいと思うよ。

たしかに。正則って、ただの“猪武者”じゃなかったんだね!
さらに詳しく

福島正則(東京国立博物館蔵)
福島正則とは?
福島正則(1561年〜1624年)は、豊臣秀吉の親戚にあたる武将で、若いころから秀吉に仕えて頭角を現しました。賤ヶ岳の戦いでは一番槍を奪い、「賤ヶ岳の七本槍」として名を馳せます。
その後、関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として活躍し、安芸広島49万8千石を与えられ、大名として最盛期を迎えました。武勇に秀でた一方で、直情的な性格が災いして、政治的な駆け引きには不器用だったといわれています。
幕府の統制と「武家諸法度」
徳川家康が政権を握ると、1603年に江戸幕府が成立。翌1604年には、全国の大名を取り締まるための法律である武家諸法度が制定されました。
この法令では、大名が勝手に婚姻や同盟を結ぶことや、城の増改築を行うことが厳しく制限されました。なぜなら、これらの行為は謀反の準備と見なされるリスクがあるからです。
福島正則は、こうした幕府の支配体制に対して、しばしば不注意な対応をしてしまいました。中でも決定打となったのが、「広島城の無断修繕事件」です。
なぜ正則は広島城を修繕したのか?
元和5年(1619年)、台風の被害により正則の本拠地・広島城が大きく損壊します。特に本丸・二の丸・三の丸の石垣や建物の破損が深刻だったため、正則は修繕を開始します。
しかし、この修繕は幕府に届け出た上で許可を得るべきものでした。一応、事前に届け出をしていた形跡はありますが、正式な許可を得ないまま工事を進めてしまいました。
これに対し、幕府は「無断修繕は武家諸法度違反」として正則を咎め、さらに「命じた破却が不十分」として再び問題視します。
修繕か、謀反か?
正則は「雨漏りがひどく、やむを得ず直しただけ」と弁明しましたが、幕府は納得しませんでした。
加えて、かねてより正則が豊臣家に近い立場であったことや、幕府への従順さに疑問を持たれていたことが、彼の立場を悪くしました。
幕府の本当の狙いは?
一部の歴史学者は、この事件の背後には幕府の権力強化と外様大名への見せしめという意図があったと指摘しています。
当時、幕府は外様大名に対する統制を強めようとしており、豊臣恩顧の大名であり、しかも気性が荒く、独断専行の多い福島正則は格好の標的だったのです。
このため、幕府は厳罰主義を貫き、正則の行動に対して大名改易という厳しい処分を下したのです。
領地没収とその後の人生
正則は広島藩50万石を没収され、信濃国高井野藩(現在の長野県高山村)へ減転封されました。その石高はたったの4万5千石。これは事実上の左遷であり、大名としての実権は大幅に制限されました。
さらに追い討ちをかけるように、息子の福島忠勝が早世し、正則は2万5千石を幕府に返上することになります。晩年は隠居し、「高斎」と号して過ごしましたが、その心中は穏やかではなかったでしょう。
信濃での最期と名誉の回復
わずか5年の高井野での生活でしたが、正則は検地や治水工事を行い、民政に尽くしました。しかし、寛永元年(1624年)、64歳で死去。家臣が幕府の検死役を待たずに火葬してしまったため、残りの2万石も没収され、福島家は取り潰しとなりました。
その後、孫の代で旗本として家名は復興されましたが、かつての栄華を取り戻すことはありませんでした。
まとめ
福島正則は、戦国の猛将として多くの戦功をあげた人物ですが、江戸幕府の厳しい支配体制の中では、その武断的な性格が仇となりました。広島城の無断修繕という行動が、幕府の規律に反したとされて領地を没収され、信濃の山間に押し込められる結果となったのです。戦国の名将の晩年は、まさに時代の変化に翻弄された象徴と言えるでしょう。
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