乱を起こした平将門の首が夜空を飛んだ!? 怨霊伝説の真相に迫る

平将門 平安時代

要約

平将門は平安時代中期に坂東(関東)で台頭した武士であり、地域の独立支配を目指して「平将門の乱」を起こしました。最終的には朝廷の討伐軍に敗れて戦死しましたが、その後も将門の存在は強く語り継がれます。特に「首が空を飛んで坂東に戻った」という伝説をきっかけに、将門は怨霊として恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられるようになりました。現在では、彼は守護神として神田明神などで祀られ、都市伝説と信仰が重なり合う存在となっています。

ミホとケンの対話

ミホ
ミホ

ねえケン、平将門って知ってる?

ケン
ケン

えーと、名前だけ聞いたことある気がするけど…戦った人?

ミホ
ミホ

うん、平安時代に“坂東”って呼ばれた今の関東地方で活躍した武士よ

ケン
ケン

坂東って、関東の昔の呼び方?

ミホ
ミホ

そう。その坂東で“平将門の乱”っていう大きな戦を起こしたの

ケン
ケン

へえ…どんな乱だったの?

ミホ
ミホ

将門は坂東を自分たちで治めようとして、朝廷に頼らない独自の支配を始めたの

ケン
ケン

えっ、それってヤバいやつじゃん!

ミホ
ミホ

朝廷からすれば反逆者だけど、地元の人からは英雄って見られてたのよ

ケン
ケン

英雄?なんで?

ミホ
ミホ

農民を守ったり、不正を正したりしてたから。人々の暮らしを良くしようと頑張ってたの

ケン
ケン

なるほど…それで朝廷とぶつかっちゃったのか

ミホ
ミホ

そう。最終的には討たれちゃって、“平将門の乱”は鎮圧されちゃうんだけど…

ケン
ケン

え、それで終わりじゃないの?

ミホ
ミホ

終わらなかったの。将門にはとんでもない伝説があるの

ケン
ケン

どんな!?

ミホ
ミホ

将門の首が京の都でさらされたんだけど、いつまでも腐らなくて、ある夜、白い光を放って坂東へ飛んで行ったって

ケン
ケン

えぇぇっ!? 首が!? どうやって飛ぶの!?

ミホ
ミホ

『胴体に戻ってもう一度戦う!』って叫んだって言い伝えもあるの

ケン
ケン

ホラーすぎる…

ミホ
ミホ

それが将門の怨霊伝説の始まり。都では“祟り神”として恐れられるようになったの

ケン
ケン

祟り神って…災いを起こすってこと?

ミホ
ミホ

そう。疫病や雷なんかがあると、将門の祟りじゃないかって噂されたわ

ケン
ケン

でもさ、さっき英雄って言ってたよね?

ミホ
ミホ

うん。坂東では今でも将門は守り神として祀られているの

ケン
ケン

守り神と怨霊って真逆じゃん!

ミホ
ミホ

でもね、日本では“怖い存在ほど丁寧に祀る”って信仰があるのよ

ケン
ケン

あ、なるほど。怒らせないようにするってことか

ミホ
ミホ

そう。それがいつしか“守ってくれる存在”にもなっていくの

ケン
ケン

へえ…それで将門の首は今どこにあるの?

ミホ
ミホ

東京・大手町の“将門塚”が有名よ。今でも手を合わせる人が絶えないの

ケン
ケン

ボクも通りかかったらお祈りしようかな…なんか敬意を払いたくなってきた

さらに詳しく

平将門

平将門(築土神社所蔵)

平将門とは?

平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期に活躍した武士で、桓武天皇の子孫にあたります。彼の父・平良将(たいらのよしまさ)は鎮守府将軍として東北地方の軍事を担っていた人物で、将門もその地盤を受け継ぎました。

将門は関東、つまり当時の「坂東(ばんどう)」で一族内の争いや有力豪族との抗争に巻き込まれ、やがて自らの支配体制を築いていきます。この一連の騒動が頂点に達したのが「平将門の乱」(承平・天慶の乱)です。

平将門の乱とは?

939年、将門は坂東の複数の国府(現在の県庁所在地のような場所)を制圧し、実質的に地域の支配者となりました。彼は国司を追放し、朝廷の支配を排除する行動に出たため、朝廷から朝敵として討伐されることになります。

940年、藤原秀郷平貞盛らによる追討軍との決戦で、将門は矢を額に受けて討死。これにより乱は終結しますが、彼の存在は死後も人々の記憶に強く刻まれることとなります。

怨霊として語られた将門

平将門

さらし首になっても睨み続ける平将門(『源氏 一統志(げんじいっとうし)』の挿絵、葛飾北斎作、国立公文書館蔵)


将門の死後、都で将門の首がさらし首にされたという記録が残っています。しかしその首は腐らず、目を見開き、歯ぎしりしていたという不気味な伝説が生まれました。

そしてある夜、その首が白光を放って東へ飛び去ったとされ、「胴体と合体してもう一度戦う」と叫んだという話も伝わっています。こうして将門は、日本史上有数の怨霊として語られるようになりました。

将門塚と祟りの伝説

現在、東京・大手町にある「将門塚」は、飛んできた首が落ちた場所とされ、江戸時代から現代まで手厚く祀られている場所です。特に昭和初期に将門塚の移転を試みた工事関係者に不可解な事故や病死が相次いだことから、今も「動かしてはならない場所」として知られています。

守り神としての将門

一方で、将門は怨霊として恐れられるだけでなく、“坂東の守護神”としても信仰されています。神田明神では、将門は「東京都の守り神」として祀られており、企業や受験生が参拝することでも有名です。

江戸時代には徳川家によって神田明神が江戸の鎮守とされ、将門への信仰はさらに広まりました。これは、恐れからくる信仰だけでなく、将門の正義感や地域への貢献が再評価された結果でもあります。

成田山との因縁

将門を調伏するため、朝廷の命で高僧寛朝僧正が東国に派遣され、成田山新勝寺を開いたという伝説もあります。そのため、将門を信仰する地域では成田山への参拝を避ける風習が残っている場所もあります。

ただしこれはあくまで民間信仰であり、現在では神田明神側も「成田山を参拝しても問題ない」と明言しています。

まとめ

平将門

平将門は坂東の英雄として民衆から支持され、朝廷への反抗から「平将門の乱」を引き起こしました。死後は首が飛ぶ伝説が生まれ、怨霊として恐れられますが、時代とともに評価は変化し、現在では東京の守護神として信仰されています。その姿は、ただの反逆者ではなく、民を思い、恐れと敬意を同時に集めた稀有な人物像を今に伝えています。

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