要約
徳川吉宗は、徳川将軍家の三家の一つ・紀州藩の出身で、本来は将軍になる予定のなかった人物です。しかし、7代将軍・家継の死後、将軍家に直系の後継者がいなかったため、有力な血筋を持つ吉宗が抜擢されました。本記事では、吉宗がなぜ将軍に選ばれたのか、どのような背景や事情があったのかを、会話形式でわかりやすく解説します。
ミホとケンの対話

ねえケン、徳川吉宗って聞いたことある?

名前だけなら!なんか”暴れん坊将軍”だよね?

そうそう、テレビドラマの影響で有名だけど、実は彼、本来は将軍になる予定じゃなかったんだよ

えっ!? じゃあ、なんで将軍になったの?

それにはね、当時の将軍家のピンチが関係してるの

ピンチ?どういうこと?

7代将軍・家継が、わずか8歳で亡くなったの。しかも、跡継ぎがいなかったのよ

あ、じゃあ誰か他の親戚を探すしかなかったってこと?

その通り。そこで白羽の矢が立ったのが、紀州徳川家の吉宗だったの

紀州徳川家って、将軍家と関係あるの?

あるよ。徳川御三家っていって、将軍家の血筋を保つための家系が3つあって、紀州家はその1つ

あー、聞いたことある!尾張、紀州、水戸だっけ?

正解!その中でも、紀州家の吉宗は特に真面目で有能って評判だったの

じゃあ、運だけじゃなくて実力もあったんだね

うん。当時の幕政は財政難でボロボロだったから、将軍には改革できる人材が求められてたの

え、そんなに大変だったの!?

実際に、吉宗は将軍になるとすぐ『享保の改革』を始めて、いろんな改革を実行したんだよ

すごいじゃん!でもさ、他の御三家からも候補はいなかったの?

尾張家にも候補はいたけど、将軍家と仲があまり良くなかったり、政治的に難しかったの

なるほど…。それで吉宗が選ばれたのか

そう。そしてこの選択が、江戸幕府を立て直す大きなターニングポイントになったんだよ
さらに詳しく

徳川吉宗(徳川記念財団蔵)
徳川吉宗とは?
徳川吉宗(1684年~1751年)は、江戸幕府の第8代将軍であり、紀州徳川家の出身です。紀州家は、徳川家康の十男・徳川頼宣を祖とする徳川御三家の一つです。
もともと将軍家からは距離があった吉宗ですが、その実直で倹約的な性格や、紀州藩主としての藩政改革の実績が評価されていました。江戸に入る前から、「質実剛健」「政治に明るい」として注目されていたのです。
将軍家の危機と家継の急逝
将軍家に後継者がいなかった
7代将軍・徳川家継は、父・家宣の急死によりわずか4歳で将軍になりましたが、体が弱く、享年8歳という早すぎる死を迎えます。
その時点で、将軍家には直系の男子がいなかったため、江戸幕府の中枢は後継者選びで大混乱に陥ります。
将軍候補は御三家に
将軍の血筋を保つために設けられた御三家――尾張・紀州・水戸の三家から後継者を選ぶ必要がありました。
吉宗が選ばれた理由
尾張・水戸が外れた背景
尾張家には当時、将軍候補として名前が挙がる人物もいましたが、幕閣との関係が良好ではなく、政治的に推しづらい状況でした。また、藩主が高齢であったことも不利でした。
一方で水戸家は学問を重んじる家風で、実務的な藩政経験に乏しかったため、現実的な候補にはなり得ませんでした。
吉宗の政治手腕
こうした中で注目されたのが、藩政改革に成功していた吉宗です。紀州藩の財政再建、年貢制度の見直し、倹約令などの実績が高く評価されていたのです。
また、将軍家に近い血筋であることも、継承において重要な要素でした。こうして幕閣や有力大名たちの支持を得た吉宗が、8代将軍に就任することが決まります。
将軍就任後の「享保の改革」
将軍に就任した吉宗は、ただちに幕府の建て直しに取り掛かります。これがいわゆる享保の改革です。
財政再建と倹約
吉宗は倹約令を出し、将軍自らも質素な暮らしを実践しました。大名や旗本にも無駄な支出を抑えるよう命じ、贅沢な文化を戒めました。
庶民の声を政治に反映
改革の中で注目されるのが、目安箱の設置です。庶民からの意見や不満を直接受け取り、幕政に活かすという画期的な試みでした。これは政治の透明性と民意の尊重という観点から、当時としては非常に革新的でした。
人材登用制度の改革
また、家柄だけに頼らない登用制度として、足高の制を導入。能力ある者に対し、官位に応じた俸禄を与えることで、実力主義の政治体制を構築しました。
吉宗の功績と後世への影響
吉宗の改革はすべてが成功したわけではありませんが、幕府の信頼を回復させることには一定の成果をあげました。そのため彼は「享保の改革を成し遂げた名君」として、後の時代にも高く評価されています。
また、彼の政治姿勢は幕末に至るまでの政治思想や改革論議にも大きな影響を与え、幕政の規範とも言える存在となりました。
まとめ
徳川吉宗は本来、将軍になる予定の人物ではありませんでしたが、将軍家の直系が絶えた危機的状況の中で、有能かつ血筋の近い人物として抜擢されました。その後、享保の改革を通じて幕政の立て直しに成功し、「名君」と称される存在となりました。このような歴史の偶然と人物の資質が、幕府の命運を左右したのです。
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